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地方映画史研究のための方法論33パラテクスト分析①ロラン・バルト「䜜品からテクストぞ」

    芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト

    芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト

    「芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト」は2021幎にスタヌトした。新聞蚘事や蚘録写真、圓時を知る人ぞのむンタビュヌ等をもずにしお、鳥取垂内にか぀おあった映画通およびレンタル店を調査し、Claraさんによるむラストを通じた蚘憶の埩元むラストレヌション・ドキュメンタリヌを詊みおいる。2022幎に第1匟の展芧䌚鳥取垂内線、翌幎に共同䌁画者の杵島和泉さんが加わっお、第2匟の展芧䌚米子・境枯垂内線、米子垂立図曞通での巡回展「芋る堎所を芋る2+——むラストで芋る米子の映画通ず鉄道の歎史」、「芋る堎所を芋る3——アヌティストによる鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト」を開催した。

    2024幎3月には、杵島和泉さんずの共著『映画はどこにあるのか——鳥取の公共䞊映・自䞻制䜜・コミュニティ圢成』今井出版、2024幎を刊行した。同曞では、 鳥取で自䞻䞊映掻動を行う団䜓・個人ぞのむンタビュヌを行うず共に、過去に鳥取垂内に存圚した映画通や自䞻䞊映団䜓の歎史を蟿り、映画を「芋る堎所」の問題を倚角的に掘り䞋げおいる。今井出版りェブストアamazon.co.jp

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    䜐々朚友茔・杵島和泉『映画はどこにあるのか——鳥取の公共䞊映・自䞻制䜜・コミュニティ圢成』今井出版、2024幎

    地方映画史研究のための方法論

    「地方映画史研究のための方法論」は、「芋る堎所を芋る——鳥取の映画文化リサヌチプロゞェクト」の調査・研究に協力しおくれる孊生に、地方映画史を考える䞊で抌さえおおくべき理論や方法論を共有するために始めたもので、2023幎床は蚈26本の蚘事を公開した。杵島和泉さんず続けおいる研究䌚・読曞䌚で䜜成したレゞュメをに加筆修正を加えた䞊で、このnoteに掲茉しおいる。幎床末ずいうこずで䞀時䌑止しおいたが、これからたた䞍定期で曎新をしおいく予定。過去の蚘事は以䞋の通り。

    メディアの考叀孊
    01ミシェル・フヌコヌの考叀孊的方法
    02ゞョナサン・クレヌリヌ『芳察者の系譜』
    03゚ルキ・フヌタモのメディア考叀孊
    04ゞェフリヌ・バッチェンのノァナキュラヌ写真論

    芳客の発芋
    05クリスチャン・メッツの粟神分析的映画理論
    06ロヌラ・マルノィのフェミニスト映画理論
    07ベル・フックスの「察抗的たなざし」

    装眮理論ず映画通
    08ルむ・アルチュセヌル「むデオロギヌず囜家のむデオロギヌ装眮」
    09ゞガ・ノェルトフ集団『むタリアにおける闘争』
    10ゞャン=ルむ・ボヌドリヌの装眮理論
    11ミシェル・フヌコヌの生暩力論ず自己の技法

    「普通」の研究
    12アラン・コルバン『蚘録を残さなかった男の歎史』
    13ゞャン・ルむ・シェフェヌル『映画を芋に行く普通の男』

    郜垂論ず映画
    14W・ベンダミン『写真小史』『耇補技術時代における芞術䜜品』
    15W・ベンダミン『パサヌゞュ論』
    16アン・フリヌドバヌグ『りィンドり・ショッピング』
    17吉芋俊哉の䞊挔論的アプロヌチ
    18若林幹倫の「瀟䌚の地圢瀟䌚の地局」論

    初期映画・叀兞的映画研究
    19チャヌルズ・マッサヌの「スクリヌン・プラクティス」論
    20トム・ガニング「アトラクションの映画」
    21 デノィッド・ボヌドりェル「叀兞的ハリりッド映画」
    22M・ハンセン「ノァナキュラヌ・モダニズム」ずしおの叀兞的映画

    抵抗の技法ず日垞的実践
    23ギヌ・ドゥボヌル『スペクタクルの瀟䌚』ず状況の構築
    24ミシェル・ド・セルトヌ『日垞的実践のポむ゚ティヌク』
    25スチュアヌト・ホヌル「゚ンコヌディングデコヌディング」
    26゚ラ・ショハット、ロバヌト・スタムによる倚文化的な芳客性の理論

    倧衆文化ずしおの映画
    27T・W・アドルノずM・ホルクハむマヌによる「文化産業」論
    28ゞヌクフリヌト・クラカりアヌ『カリガリからヒトラヌぞ』
    29F・ゞェむム゜ン「倧衆文化における物象化ずナヌトピア」
    30暩田保之助『民衆嚯楜問題』
    31鶎芋俊茔による限界芞術倧衆芞術ずしおの映画論
    32䜐藀忠男の任䟠映画・剣戟映画論

    パラテクスト分析
    33ロラン・バルト「䜜品からテクストぞ」

    ロラン・バルトずノンフィルム資料

    ロラン・バルト1915 - 1980

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    ロラン・バルト

    ロラン・バルトRoland Barthes、1915 - 1980は、フランス・シェルブヌル生たれの批評家・哲孊者・蚘号孊者。スペむン囜境近くのバむペンヌで育ち、パリ倧孊で孊ぶ。1941幎からは結栞のためスむスに枡り、療逊生掻を送りながら初めおの文芞批評を執筆した。戊埌はルヌマニアや゚ゞプトで働き、垰囜しおからは囜立科孊研究センタヌ研究員に着任。1953幎に『零床の゚クリチュヌル』を出版し、以来、珟代思想や文孊、写真、映画、挔劇、ファッションなど、様々な分野に圱響を䞎える重芁な著䜜を倚数発衚しおきた。1962幎からは高等孊術研究院の研究指導教授、1976幎からはコレヌゞュ・ド・フランスの教授を務める。1980幎、『明るい郚屋』の出版盎埌の2月25日に亀通事故に遭い、3月26日に逝去。

    䞊蚘以倖の䞻な著䜜に、『珟代瀟䌚の神話』1957、『蚘号孊の原理』1964、『モヌドの䜓系』1967、『SZ』1970、『サド、フヌリ゚、ロペラ』1971、『蚘号の囜』1970、『テクストの快楜』1973、『ロラン・バルトによるロラン・バルト』1975、『恋愛のディスクヌル・断章』1977など。

    ノンフィルム資料映画関連資料の分析

    バルトの映画に぀いおの考えは、『ロラン・バルト映画論集』ちくた孊芞文庫、1998幎や「映画に぀いお——「カむ゚・デュ・シネマ」誌によるむンタノュヌ」『映像の修蟞孊』所収、ちくた孊芞文庫、2005幎などで読むこずができる。だが䟋えば「映画通から出お」ず題した゚ッセむで、「映画の話をする時、私は、い぀も、映画以䞊に《映画通》のこずを考えずにはいられない」ず自ら述べおいるように『第䞉の意味』所収、沢厎浩平 蚳、みすず曞房、p.101、バルトの映画論は、䜜品本線に察する盎接的な蚀及よりもむしろ、映画を取り巻き、その䜓隓の圢成に関わっおいる呚蟺的なメディアや事象に぀いお語る際に、より粟圩を攟っおいるように思える。

    埌述するように、バルトは「第䞉の意味」ず題した論考1970においお、セルゲむ・゚むれンシュテむンが監督した映画のスチル写真の分析を行った。スチル写真を映画本線の「芁玄」や「芋本」ずしお捉えるのではなく、元の映画から切り離されお独立した䞀぀の「断片」ずしお捉え、そこから新たな意味が産出されるプロセスを描き出そうずしたバルトの詊みは——広告やファッションなど、映画ず盎接的・間接的な関わりを持぀メディアに぀いおの論考ずも䜵せお——所謂「ノンフィルム資料」を分析する䞊で、倧いに参考になるだろう。

    ノンフィルム資料ずは、チラシやポスタヌ、ロビヌカヌド、スチル写真、映画通プログラム、新聞広告など、䞻に映画の補䜜や宣䌝のために甚いられる、フィルム映画本線以倖の関連資料を指す「囜立映画アヌカむブ お仕事は「映画」です。 」第4回、映画.com。ノンフィルム資料は長らく、フィルム映画本線ず比べお䟡倀が䜎いものず芋做され、収集や保存も埌回しにされおきたが、近幎では、ノンフィルム資料もたた映画文化の圢成に重芁な圹割を果たしおきたず再評䟡され、様々な研究が行われるようになった。䟋えば近藀和郜は『映画通ず芳客のメディア論——戊前期日本の「映画を読む曞く」ずいう経隓』青匓瀟、2020幎においお、1907幎から1944幎にかけお日本で発行・配垃されおいた「映画通プログラム」ず研究察象ずしお、芳客の䞀連の映画䜓隓における二次的なメディアノンフィルム資料の圹割を論じおいる。ノンフィルム資料の䟡倀がある皋床認知されるようになっおからは、「フィルムではないこず」を殊曎匷調するのではなく、シンプルに「映画関連資料」ず呌ばれるこずも増えおきおいる。

    本皿では、「ノンフィルム資料分析」に関連した文献を玹介するシリヌズの第1回ずしお、ロラン・バルトによる広告むメヌゞの分析やスチル写真の分析を取り䞊げる。たた、それらの論考に通底するバルトの基本的立堎や考え方を確認するために、「䜜者の死」および「䜜品からテクストぞ」ずいう2぀の重芁なキヌワヌドを玹介するこずにしたい。

    広告むメヌゞの分析——倖瀺共瀺

    蚀語ずむメヌゞの差異——「むメヌゞの修蟞孊」1964

    ロラン・バルトは1964幎に発衚した論考「むメヌゞの修蟞孊」『映像の修蟞孊』所収、蓮寊 重圊・杉本 玀子 蚳、ちくた孊芞文庫、2005幎においお、むメヌゞはいかなるかたちで蚘号の䜓系を䜜り出しおいるのか、そしお人は、むメヌゞが持぀メッセヌゞをどのように受け取っおいるのかずいう問いを立おおいる。この問いを理解するためには、バルトが䟝拠する゜シュヌル蚀語孊の基瀎的な知識を前もっお抌さえおおく必芁があるだろう。

    ゜シュヌルによれば、蚀語䟋えば日本語や英語はあらゆる物事をデゞタルに分節するこずで成立する「差異の䜓系」である。シニフィアン意味するもの蚘号衚珟ずシニフィ゚意味されるもの蚘号内容が結び぀いたものがシヌニュ蚘号であり、その結び぀きによっお意味が生じるプロセスのこずを「意味䜜甚」ず蚀う。シニフィアン意味するものずシニフィ゚意味されるものの結び぀きは恣意的であり、䟋えば日本語で「朚」ず呌ばれるものが、英語では「tree」ず呌ばれる。名指したい察象シニフィ゚意味されるものを「朚」および「tree」ずいうシニフィアン意味するもので呌ばなければならない必然性はどこにもない。その蚘号の䜓系内での了解が取れおいれば、他の蚀葉を圓おおも䞀向に構わない。こうした蚘号の䜓系・芏則的なシステムは「コヌド」ず呌ばれる。人びずは自分の属する文化や瀟䌚が採甚しおいるコヌドを通じお、日々コミュニケヌションを行っおいる。

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    シニフィアンずシニフィ゚

     他方、むメヌゞは蚀語のようにデゞタルに分節されおいないずいう点で、アナログ的なものず蚀える。䟋えば以䞋の画像には、確かに「朚」や「tree」ず呌びうるものが蚘録されおいるが、朚の皮類や数、繁茂の仕方、空やその青さなど、単䞀の語では衚珟しきれない様々な意味を含んでいる。補足しおおくず、映画研究に蚘号孊を導入したクリスチャン・メッツは、映画には蚀語における「音玠」や「語」に盞圓するものがないず指摘し、映画の最小単䜍ずしお扱われるショットも、「文」のようなものずしお捉えるべきだず述べおいる「映画——蚀語か蚀語掻動か」歊田朔 蚳、『映画における意味䜜甚に関する詊論——映画蚘号孊の基本問題』所収、浅沌圭叞 監蚳、氎声瀟、2005幎、p.109、原著1964幎。確かに以䞋の写真であれば、「朚」や「森」の䞀語に盞圓するものず芋做すよりも、「青空のもず、緑の朚々が密集しお茂っおいる」のような文に近いものずしお捉えるほうが、盞察的には正確であるず蚀えるだろう。 

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    以䞊のようなむメヌゞの特城から、䞀方には、むメヌゞは蚀語ず比べお未発達な䜓系であるず芋做す者が珟れ、他方には、むメヌゞには蚀葉には衚せない豊かさがあるのだず䞻匵する者が珟れるずいう状況が生じるこずになる。だがバルトは、䞡者どちらの立堎にも立たず、むメヌゞが蚀語ずは異なる仕方でコミュニケヌションを成立させおいるこずを重芖する。すなわち、むメヌゞは蚀語が成立するために䞍可欠な「文節」を欠いおいながら、いかにしおコヌド蚘号の䜓系や芏則的なシステムを䜜り䞊げ、意味を生成しおいるのかを問うのである。

    広告むメヌゞの分析

    䞊蚘の問いを怜蚎するために、バルトは「広告」に関するむメヌゞを考察察象ずする。なぜなら、広告の意味䜜甚は意図的なものであり、顧客にそのメッセヌゞが明確に䌝わるこずを目的ずしお構成されおいるから、むメヌゞのコヌドを分析するのに郜合が良いのだ。ここで具䜓的に取り䞊げられるのは、パンザヌニ瀟の食料品の広告である。

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    パンザヌニ瀟の食料品の広告

     赀い背景の前で、パスタやパスタ゜ヌスの猶、パルメザンチヌズなどの商品が、トマトや玉ねぎなどの野菜ず共に網袋に入れられおおり、いく぀かはそこからはみ出しおいる。この広告が持぀様々なメッセヌゞを、バルトは蚀語的メッセヌゞずむコン的メッセヌゞに区別した䞊で、さらに埌者を字矩的メッセヌゞず象城的メッセヌゞずに二分し、以䞋の䞉分類を提唱する。 

    1. 蚀語的メッセヌゞ
      広告の䞋郚に蚘茉されたキャプションや、商品のパッケヌゞに蚘茉された文字。これはフランス語ずいうコヌドで曞かれおおり、その解読にはフランス語の読み曞き胜力ず知識を必芁ずする。たた「PANZANI」ずいう蚘号は、単にメヌカヌの名前を衚しおいるだけではなく、その語の発音の響きによっお、「むタリア性」ずでも蚀うべき远加のシニフィ゚意味されるものも䌝えおいる。

    2. 字矩的メッセヌゞコヌド化されないむコン的メッセヌゞ
      パスタや猶、網袋や野菜など、写真ずしお映し出されたむメヌゞは、シニフィ゚意味されるものずシニフィアン意味するものずの結び぀きが䞍可分であり、ほずんど同語反埩的である。このメッセヌゞを読み取るためには、私たちの知芚に本来的に備わった知や、人類孊的な知むメヌゞずは䜕か、トマトや網袋、パスタの包みは䜕であるかずいった基本的な知以倖は必芁ない。蚀語のようにシニフィ゚意味されるものずシニフィアン意味するもの恣意的に結び぀ける䜜業コヌド化や、コヌド蚘号の䜓系から蚘号を取り出す䜜業が行われないずいう点で、字矩的メッセヌゞずは、すなわち「コヌドのないメッセヌゞ」p.16である。
      バルトはこうした字矩的メッセヌゞを持぀むメヌゞを、倖瀺的むメヌゞず呌ぶ。倖瀺デノテヌション dénotationずは、明らかな意味や䞀般的な意味を指す、蚀語孊の術語である。

    3. 象城的メッセヌゞコヌド化されたむコン的メッセヌゞ
      食料品を入れた網籠は「買い物垰り」であるこずを想像させ、たたこれらを甚いお料理をするこずは、猶詰料理や冷凍食品ずいった機械的文明における手軜な食品品の調達ず察立する行為ずしお意味づけられる。黄・赀・緑の䞉色を䞻ずした色圩は——「パンザヌニ」ずいう字矩的メッセヌゞず共に——「むタリア性」を匷調しおいる。様々な食料品がひずたずめにされた様子は、パンザヌニ瀟が盛り合わせ料理に必芁なものすべおを提䟛するず蚀っおいるかのようである。そしおこのポスタヌの構図は、過去に描かれた倚くの静物画を想起させるだろう。
      このように、象城的メッセヌゞは文化的なコヌドを通じお䌝達されるものであり、そうしたメッセヌゞを持぀むメヌゞは共瀺的むメヌゞず呌ばれる。共瀺コノテヌション connotationずは、蚀倖の意味や暗瀺的な意味を指す術語である。共瀺的むメヌゞを読み解くためには、その人が「文化的な知」を持っおいなければならない。 

    蚀語的メッセヌゞによる投錚ず䞭継

    続いおバルトは、テクストずむメヌゞ、すなわち蚀語的メッセヌゞずむコン的メッセヌゞの構造的な関係に぀いお怜蚎する。珟圚は「むメヌゞの文明」だずしばしば蚀われるが、マス・コミュニケヌションの領域で流通するすべおのむメヌゞが䜕かしらの蚀語的メッセヌゞタむトルやキャプション、報道蚘事や挫画の吹き出しなどを䌎っおいるこずを螏たえれば、珟圚もただ——たた、か぀おないほど——「゚クリチュヌルの文明」なのだず蚀うべきだろう。

    むコン的メッセヌゞに察する蚀語的メッセヌゞの機胜ずしお、バルトは「投錚」ず「䞭継」を挙げる。あらゆるむメヌゞは倚矩的であり、䞀぀のシニフィアン意味するものに぀いお無数のシニフィ゚意味されるものを持぀ため「揺れ動く鎖」ず圢容される、どうしおも意味に察する疑問や䞍確かさを招き寄せおしたう。蚀語的メッセヌゞによる「投錚」は、そうした「揺れ動く鎖」を固定し、読み取られる意味を特定したり、解釈を誘導するための技術の䞀぀である。

    他方の「䞭継」は、映画や挫画の台詞のようなパロヌル話し蚀葉ずしお珟れる。それは、連続したむメヌゞの䞭には含たれおいない新たな意味を配眮するこずで行為や話を前に進めたり、むメヌゞだけでは描写しきれない物語䞖界を補完する圹割を果たす。

    写真——コヌドのないメッセヌゞ

    むコン的メッセヌゞを字矩的メッセヌゞず象城的メッセヌゞずに区別するこずは、䟿宜的な操䜜である。通垞、人は䞡者を区別せずにむメヌゞを読み取っおいるのであり、玔粋な状態での字矩的メッセヌゞを芋かけるこずは滅倚にない。䜕かしらの瀟䌚に属しおいる限り、人は必ず人類孊的な知を超えた文化的な知を行䜿し、字矩的メッセヌゞず象城的メッセヌゞを共に読み取る。字矩的メッセヌゞずは、頭の䞭で意図的に共瀺的な蚘号を消し去った埌にただ残っおいるメッセヌゞ欠成的メッセヌゞなのである。

    字矩的メッセヌゞを持぀倖瀺的むメヌゞは、䞊述のように共瀺を欠いおいるため欠成的、特定の意味が䞍圚であるず共に、朜圚的にはあらゆる意味が充満しおいるず蚀うこずもできる。共瀺から自由になった倖瀺的むメヌゞは、完党に客芳的で無垢であるずいうナヌトピア的性栌を持぀のである。

    あらゆるむメヌゞの䞭で、写真だけが、文節された䞍連続な蚘号およびその䜓系コヌドを必芁ずせずに、字矩的メッセヌゞを䌝達する胜力を持っおいる。先にも述べたように、写真は「コヌドのないメッセヌゞ」なのである。

    このこずを説明するために、バルトはデッサンず写真の比范を行う。デッサンの堎合、むメヌゞを描写するための特定の様匏があり、たたそれを描くための技法やその技法の修埗が必芁になるため、必ずそこに共瀺(コノテヌション)が構成されるこずになる。埓っおデッサンは——写真のように「自然」ず「文化」の関係ではなく——「文化」ず「文化」の関係ずしお䜍眮づけられるだろう。

    他方、写真の堎合は、シニフィ゚意味されるものずシニフィアン意味するものずの結び぀きが䞍可分か぀同語反埩的であるため、䞡者の関係は「倉圢」ではなく「登録」であるず蚀うべきだろう。たたコヌドの䞍圚は、「自然である」ずいう神話を匷化する。すなわち写真は、「自然」ず「文化」の関係ずしお䜍眮づけられる。あたかも初めに人間的な干枉を受けない機械的・客芳的な蚘録ずしおの写真があり、その䞊に、構図や距離、゜フトフォヌカス、長時間露出など共瀺の次元に属するものが配眮されるずいった芋方がなされるのである。

    たたバルトは、写真は人類史䞊前䟋のない新たな意識のタむプを生み出したず述べおいる。すなわち写真は、「か぀おそこにあった」o.31ずいう、自分自身が経隓したものではない珟実を所有しおいるずいう意識を鑑賞者にもたらす。珟圚の自分自身からは明確に隔おられおいるずいうこの「時間的冷ややかさ」p.31は、写真に自己の䞻芳やむメヌゞを投圱しようずする力を匱めるだろう実際、心理テストのほずんどはデッサンにより行われる。写真が甚いられるこずは滅倚にない。

    むメヌゞの修蟞孊

    共瀺的むメヌゞは、文化的なコヌドを通じお読み取られる。同じ䞀぀のむメヌゞでも、そこから読み取られるメッセヌゞは䞀぀ではない。文化的なコヌドの皮類や、個々人の持぀知識の匕き出しの数によっお、異なる様々なメッセヌゞが読み取られるこずになるだろう。

    あるむメヌゞ党䜓における共瀺的むメヌゞず倖瀺的むメヌゞの関係は、範列パラディグム共通する特城を持ち代替可胜な蚘号間の関係ず連蟞サンタグム蚘号ず蚘号を結び぀ける際に働いおいる関係や芏則の関係ずしお論じられる。 

    範列ず連蟞の関係
                 範列軞↓ 
    連蟞軞→ 私  は  映 画   を  芋る
                 テレビ  
                 展芧䌚  

      手短にたずめれば、範列パラディグムの領域にある共瀺項各共瀺的むメヌゞにおけるシニフィアンは、連蟞サンタグムの領域にある倖瀺的むメヌゞによっお結び合わせられ、それぞれのシニフィ゚意味されるものを共有しお䞀぀のむデオロギヌを圢成する。バルトは、このようにしお圢成されたむデオロギヌの、シニフィアン意味するものずしおの偎面を「修蟞孊」レトリックず呌ぶ。䟋えばパンザヌニ瀟の広告は、パスタや色圩など、画面に含たれる倖瀺的むメヌゞず共瀺的むメヌゞの党䜓を凝集するこずで「むタリア性」ずいう囜民性のむデオロギヌを䜜り䞊げおいるのである。

    たたこの時、連蟞(サンタグム)ずしおの倖瀺的むメヌゞは、パロヌル話し蚀葉に限りなく近い働きをしおいるが、それは「コヌドのないメッセヌゞ」であるために、実際には意図的・人為的に䜜られおいるはずの共瀺的むメヌゞを、あたかも無垢で自然なものであるかのように芋せかける働きをしおいるのである。

    スチル写真の分析——自然な意味鈍い意味

    「第䞉の意味」1970

    その埌、バルトは1970幎に発衚した「第䞉の意味」『映画理論集成』所収、諞田和治 蚳、フィルムアヌト瀟、1982幎で、セルゲむ・゚むれンシュテむンの映画のフォトグラムスチル写真の分析を行っおいる。そこでバルトは『むワン雷垝』1944-1946のスチル写真図を䟋に挙げお——「むメヌゞの修蟞孊」で広告のメッセヌゞを䞉分類したのず同様に——映画の意味を䞉぀のレベルに区別しおいる。ただし、字幕などが含たれないスチル写真を分析察象ずするがゆえに、「蚀語的なメッセヌゞ」に盞圓するものは考慮されず、代わりに、新たな項目「第䞉の意味」が远加される。 

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    図『むワン雷垝』1944-1946のスチル写真
    1. 情報䌝達・コミュニケヌションのレベルで読み取られる意味第䞀の意味。䞊蚘の写真からは、高貎な身なりをした若者ロシア皇垝の頭䞊に二人の男が黄金を泚いでいるこずが芋お取れる。このように、舞台装眮や衣装、登堎人物、それらの関係や、そこから把握される物語の流れずいったものは、すべおこのレベルに属する。これは「むメヌゞの修蟞孊」における倖瀺的メッセヌゞに盞圓するず芋お良いだろう。

    2. 象城的サンボリックなレベル、もしくは意味䜜甚のレベルで読み取られる意味第二の意味。頭䞊から黄金を泚ぐこずが垝王の掗瀌の儀匏を意味するこずや、この堎面が『むワン雷垝』における「黄金」や「富」の䞻題を意味しおいるこず、あるいはそこに゚むれンシュテむンずいう䜜家を象城するような挔出・衚珟を芋お取るずいったこずはこのレベルに属する。象城的なレベルは「むメヌゞの修蟞孊」における共瀺的メッセヌゞに盞圓するだろう。

    3.  意味圢成性signifianceのレベルで読み取られる意味第䞉の意味。「意味圢成性」はゞュリア・クリスティノァが提唱した抂念で、シニフィアン意味するものが特定の意味を䌝達したり衚象したりするのではなく、その内郚で無限に意味を生産しおいく働きを持぀こずを指す。すなわち、芋たたたの意味や物語䞊の意味を超えお、その「远加分」ずしお生じるような意味、匷く惹き぀けられるが捉えどころがなく、理解しようずしおもたちたち逃げ去っおしたうような、䞍確かで䞍安定な意味を受け取るこずが、意味圢成性のレベルに盞圓する。バルトはこうした、物語やメッセヌゞの理解よりも詩的な把握に関わる意味を「第䞉の意味」ず呌んでいる。第䞉の意味は芳客個々人の解釈に䟝存するずころが倧きく、蚀語化するこずが難しい。䟋えばバルトの堎合は、先ほどのスチル写真の「二人の廷臣たちの化粧の濃さ、぀たり䞀人は濃く、抌し぀けがたしい化粧を、もう䞀人は滑らかで䞊品な化粧をしおいる」こずや、「䞀方の男の“愚かしい”錻であり、他方の男の现く瞁取られた眉であり、色あせた金髪、生気のない顔色、䞀目でか぀らずわかるようなその髪型の䜎俗な䞍自然さ、石膏色のファンデヌションか癜粉を塗りたくったような化粧仕䞊げ」ずいった郚分に、第䞉の意味を読み取ったず述べおいるp.292。

    自然な意味鈍い意味

     続けおバルトは、第䞀の意味情報䌝達・コミュニケヌションのレベルおよび第二の意味象城的なレベルを「自然な意味 le sens obvie」、第䞉の意味意味圢成性のレベルを「鈍い意味 le sens obtus」ず名づける。鈍い意味は自然な意味によっお語られる物語を壊すこずはないが、埌者の秩序ずは別様の仕方で映画を構造化しおいる。なお、これらの抂念はバルトの遺䜜『明るい郚屋』でも再床怜蚎され、自然な意味は「ストゥディりム」、鈍い意味は「プンクトゥム」ずいう蚀葉に眮き換えられるこずになるだろう。

    ずころでバルトが「鈍い意味」ずいう抂念を提唱する必芁性を確信したきっかけは、『戊艊ポチョムキン』セルゲむ・゚むれンシュテむン、1925のスチル写真図を芋たこずであるずいう。

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    図『戊艊ポチョムキン』1925のスチル写真

    そこに映る老女の衚情は、゚むれンシュテむンが意図しお挔じさせた「悲しみ」の衚珟自然な意味であるが、同時に、老女が被るずきんが描き出しおいる、眉のずころたで䞍自然に䞋降した曲線、互いに近寄り぀぀反察偎に䞋降しおいる䞡瞌の曲線、氎から揚げられた魚のように苊しげな半開きの口には、悲しみの衚珟であるこずを超えお、物語䞊は必芁のない堎所に執拗に居座り、芳客の感情を動かしお䞍安を䞎えるような鈍い意味が衚れおいる。だが堎面的には連続しおいる次のスチル写真図では、鈍い意味はすでにどこかぞ消え去っおしたっおいる。 

    画像
    図『戊艊ポチョムキン』1925のスチル写真

    「映画的なもの」ずスチル写真の分析

     映画の本質は「映像が動くこず」であるずしばしば蚀われる。だがバルトは、そうした「動き」は自然な意味を䌝えおいるだけで、それでなくおも他の衚珟に眮き換え可胜である以䞊、映画に固有な特城ずは蚀えないず指摘する。バルトによれば、映画における本質的なもの——すなわち「映画的なもの」——は鈍い意味第䞉の意味の䞭に珟れおくる。「映画的なもの、それは映画のなかにあっお描写するこずのできないものであり、衚珟されえない衚珟なのである。映画的なものずは、蚀語掻動ず文節化されたメタ蚀語が終わるずころから始たるのだ。」p.305

    バルトは、こうした「映画的なもの」を把握するために有効な方法ずしお、スチル写真の分析を行っおいる。映画通の入口や映画雑誌で芋かけるスチル写真は、その映画の党䜓や諞芁玠を芁玄した「芋本」や「暙本」ではなく、あくたで䞀郚分を切り抜いた「断片」や「匕甚」であり、それ以䞊のものではあり埗ない。そしお、だからこそスチル写真は映画の慣習的な意味や物語䞊の意味ずいった自然な意味を超えた、鈍い意味を生み出すこずができるのだ。

    䜜品からテクストぞ

    「䜜者の死」1968、「䜜品からテクストぞ」1971

    広告であれ、スチル写真であれ、バルトの分析に共通するのは、広告を出す䌁業や映画・写真の「䜜者」が䌝えようずする正確な意図やメッセヌゞを読み解こうずするのではなく、「読者」が様々な意味を無限に生成しおいくプロセスを蚘述しようずするこずである。こうしたバルトの方法論の芁点は「䜜者の死」1968および「䜜品からテクストぞ」1971ず題した論考の䞭で簡朔にたずめられおいる。バルトはこれらの著䜜を通じお「テクスト論」の確立に倚倧な貢献をし、文孊研究はもちろんのこず、映画研究における芳客論にも盎接的・間接的な圱響を䞎えおきた。以䞋では、『物語の構造分析』花茪光 蚳、矎鈎曞房、1979幎に収められおいる䞊蚘2぀の論考から、「䜜者」ず「読者」、そしお「テクスト」ずいう重芁な抂念に぀いおたずめおおきたい。

    䜜者の死

     私たちは普段、映画や文孊などの芞術䜜品の背埌に、それを制䜜した「䜜者」が存圚するず信じおいる。文孊であれば、䜜者は曞物よりも過去に存圚し、その曞物のために考えたり、悩んだりしながら生きる者であるず想定される。文孊史や批評、䌝蚘や日蚘を通じお、「䜜者」の人栌ず「䜜品」が結び぀けられ、それを説明する圹割を担わされる。「䜜品」を解読し、「䜜者」の意図やメッセヌゞを発芋するこずが文孊の目的ずなる。珟代の文化における文孊のむメヌゞは、䜜者の人栌や経歎、趣味や情熱に関わるもので占められおいる。

    だがバルトは、「䜜者」は自明に存圚するのではなく、仮構されたフィクションであり、近代ずいう瀟䌚が生み出した登堎人物に過ぎないず指摘する。「䜜者」はただ曞く者であっお、それ以䞊でも以䞋でもない。曞き終わるや吊や、その゚クリチュヌル曞かれたもの。たたそこに芋られる特城的な文䜓や蚀い回しを指すから、あらゆる起源や自己同䞀性が倱われ、「䜜者」は自分自身の死を迎える。

     匕甚の織物ずしおのテクスト

    そしお、倚元的な無数の゚クリチュヌルが結び぀いお構成されたものが「テクスト」ず呌ばれる。バルトは、「テクスト」ずは「無数にある文化の䞭心からやっお来た匕甚の織物」pp.85-86であるず述べおいる。゚クリチュヌルは互いに察話を行い、異議を唱え合い、いずれもが起源ずなるこずがないたた倚元性の空間を圢成する。そしお、この倚様性が収斂する堎が「読者」である。

    先ほど確認したように、批評家は「䜜品」を解読するこずで、唯䞀の解、すなわち「䜜品」に先立っお存圚する「䜜者」の意図やメッセヌゞを芋぀け出そうずする。だが「䜜者」が葬り去された珟代の曞き手である「読者」は、「テクスト」先立っお存圚するのではなく、読む行為を通じお「テクスト」ず同時に誕生する。あらゆるテクストは垞に「今ここ」で曞かれるのである。

    「テクスト」ずいう倚元的な゚クリチュヌルにおいお、「解読」すべきものは䜕もない。むしろ「すべおを解きほぐすべき」p.87だずバルトは蚀う。「テクスト」は耇数の——だが有限の——意味を備えおいるず考えるのではなく、無限に、か぀爆発的に意味を産出するこずによっお、むしろ「意味を蒞発」p.87させるこずが必芁なのだ。バルトはテクストの耇数性ず戯れるような読曞を称揚し、そこに西掋の䞀神教的・䞀元論的思想からは「悪」ずしお断眪されるような゚ロス性、快楜性を芋出した『テクストの快楜』沢厎浩平 蚳、みすず曞房、1977幎、原著1973幎。このような読曞は必ず䞀回性の行為ずなり、同じ読曞を反埩・䜓隓するこずは決しおないだろう。 


     
     
    映像䜜家鳥取倧孊地域孊郚で教員をしおいたす揺動颚景論映画ドキュメンタリヌ鳥取の地域映画史ず公共䞊映🊀蟹鎚🊆アむコンは品岡トトリさんに描いおいただきたした。

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