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#16 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶

    #16 第二章 罪の記憶


     二十階のフロアでは、鈴木と桜木を除く女性陣三人が、不気味に染まる赤い空をじっと見つめながら、声を潜めるようにして言葉を交わしていた。

    「ねえ、前にもこのメンバーで残業してた日があった気がしない?」

     山﨑は、不安そうに肩を寄せ合っている静香ちゃんと美智ちゃんに、安心させるような穏やかな声音で問いかけた。業務上の関わりはほとんどなかったはずの二人だけど、自分よりずっと若い彼女たちが肩を震わせているのを見て、不思議と放っておけなかった。

    「言われてみれば……そんなことがあった気も……」

     美智ちゃんは記憶をたどるように斜め上を見つめ、小さく首を傾げている。

    「でも……何だか、不思議と山﨑さんの声を聞くと、安心します」

     静香ちゃんがそう言ってくれたからだろうか。山﨑は、目の前の二人の存在が、自分の中で急激に大きくなっていくような、純粋な愛おしさを感じた。

    「静香ちゃんって、褒め上手?」

     山﨑がとぼけたように返すと、二人とも、くすぐったそうに笑った。

     静香ちゃんは、感情の起伏をあまり表に出さないタイプみたいだ。淡々としているように見えて、その内側には、他人への深い気遣いが流れている。反対に美智ちゃんは、感情がそのまま表情に出る。嬉しい時は誰よりも笑い、理不尽なことには誰よりも憤る。凪と波のような二人だな、と思った。

     その笑顔を見ているうちに、山﨑の胸の奥で、ずっと蓋をしていたはずの記憶が、静かに疼き始める。閉ざされていた頭の底から、幼い頃の光景が浮かび上がってきた。

     ──結衣。

     山﨑には、二つ下の妹がいた。

     人見知りで、いつも山﨑の背中に隠れているような子だった。それでいて、好きなものの話になると、人が変わったように饒舌になる。その性格はどこか、目の前の美智ちゃんに似ている気がする。

     二人でいるときは、花の名前を、道端の虫の種類を、いつも目を輝かせて教えてくれた。山﨑にとって結衣は、手のかかる、けれど何よりも愛おしい存在だった。

     小学五年生の夏。あの日のことは今でも、細部まで鮮明に思い出せてしまう。忘れさせてくれない、と言った方が正しいのかもしれない。

     あれは、よく晴れた休日の夕方だった。母から、山﨑は近所のスーパーへのお使いを頼まれていた。夕飯の材料が少し足りないから、買ってきてほしい、と。ほんの十分ほどの、なんてことのない用事だった。

     けれど当時の山﨑は、観たいテレビ番組の途中で、どうしても腰を上げる気になれなかった。それで、隣で図鑑を読んでいた結衣に、軽い調子で頼んだのだ。

    「結衣、ごめん、代わりに行ってきて。お姉ちゃん、今忙しくて」

     結衣は、少しだけ困った顔をした。それでも、姉に頼られたことが嬉しかったのだろう。「わかった」と頷いて、小さな手に買い物のメモとお金を握りしめ、玄関を出ていった。

     いってらっしゃい、とすら、言わなかった気がする。山﨑は、テレビ画面に目を戻したまま、妹の背中を見送りもしなかった。

     それが、生きている結衣を見た、最後だった。

     スーパーからの帰り道、信号を渡ろうとした結衣は、走ってきた車に撥ねられた。買い物袋の中身が、道路に散らばっていたのだと、後から聞いた。

     本当なら、あの道を歩いていたのは、自分だったのだ。

     あの時、ソファから立ち上がってさえいれば。面倒だと思わずに、自分の役目を自分で果たしてさえいれば。撥ねられたのは自分で、結衣は笑っているはずだった。自分が背負うべきだったものを、幼い妹に押しつけた。

     結衣が生きていれば、今、いくつになっているだろう。指を折るまでもなく、答えは分かっていた。ちょうど、美智ちゃんと静香ちゃんと、同い年だ。

     山﨑は、その符合に気づいた瞬間、息が詰まりそうになった。

     これまで一緒に仕事をしたこともなかったはずの二人に感じた、奇妙な既視感。この二人の中に、山﨑はきっと、失った結衣の面影を探していたのだろう。

    「山﨑さん? どうかしました?」

     覗き込んできた美智ちゃんの顔を見て、山﨑は、慌てて表情を繕った。

    「ああ、ごめん。なんでもない。ちょっと、昔のことを思い出してただけ」

     嘘ではなかった。

     やがて、山﨑は窓の外の赤い空をじっと見つめたあとで、二人の方を振り向いて笑った。

    「大丈夫。何かあっても、二人のことはお姉さんが守ってあげる」

     その晩、誰が口にするでもなく、三人は自然と身を寄せ合って、川の字に並んでぐっすりと眠った。


    <次の話>


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    #0 「苦難の会社員」 あらすじ・プロローグ
    #1 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #2 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #3 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #4 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #5 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #6 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
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    #26 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #27 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #28 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #29 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #30 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #31 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #32 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #33 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #34 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #35 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #36 「苦難の会社員」 エピローグ

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