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#5 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空

    #5 第一章 午前九時の空


     その違和感に気づいたのは、松本社長が出社してから、間もなくのことだった。

     静香は、毎日のルーティンである朝のメール確認とタスクの整理を終え、一息つくように窓の外を眺めていた。

     燃えるような、茜色の朝焼け。斜光の中に踊る無数の埃がキラキラと光を反射していて、いつもは味気ないオフィスを、どこか幻想的に彩っている。静香は、時間が止まったかのように美しいその情景に、つい心を奪われ、じっと見惚れてしまっていた。

    (──朝焼け?)

     その時、突然、静香は胸に奇妙なざわつきを覚えたのだった。

     朝焼けは、日の出の前に現れるはずのものだ、と思った。けれど、すでに時計は九時きっかりを指し、本来なら眩しい白日が辺りを明るく照らしているべき時刻をまわっている。どうしてこの時間になってもまだ、空は鮮やかな茜色をしているのだろうか。

     今朝、オフィスの前で衝動的に写真を撮った時、胸の奥にあったあの引っかかりの正体が、鮮烈に結びついた。スマホのカメラロールを開くと、先ほど撮影した写真にも、同じ鮮やかな茜色が写り込んでいる。

     時を同じくして、隣の島のデスクに座っていた美智も、その異様な光景が異様であるのだと、ようやく認識したようだった。怪訝そうな顔で窓の外をじっと見つめながら、静香の元へ一直線に足を早めてくる。

    「ねえ静香。空の色、変だよね? これって、地震か何かの予兆かな?」
    「私も今、同じこと考えてた。なんか、変な感じ」

     窓の外を凝視する二人の背後に、出社している面々が吸い寄せられるようにして、ぞろぞろと集まり始めた。

    「何々、静香ちゃん、どうしたの?」
    「桜木さん……。この時間に朝焼けって、何かおかしくないですか? もう、九時なのに」

     静香は、窓の外を指差した。

    「本当だ。何これ、異常気象……?」

     桜木さんは、まるでガラスの向こうにある景色に魅入られたかのように、うつろな足取りで窓へと歩み寄る。そのまま、額がガラスに触れんばかりに顔を寄せ、その端正な瞳を大きく見開いたまま、呆然と空を凝視した。

    「何か、不気味だな」

     その後ろで、藤牧さんも同様の困惑した反応を見せていた。そこに集まった全員が、判で押したように同じ表情を浮かべ、ざわざわと色めき立っている。

    「思い返せば、私が出社した時から、こんな空だったんです……」

     静香は、今朝撮影した写真をスマホの画面に映し出し、集まった皆に見せて回った。それを確認した一同は、自分の記憶を確かめるように黙り込む。

     先ほどまでは、誰も気に留めていなかった赤い空。それなのに、まるで集団催眠から目覚めたかのように、全員が同時にその異常性を認識した。そのことに説明のつかない薄気味悪さを感じて、静香は喉を詰まらせた。

    「誰か一人くらい、もっと早く気づきそうなのに、普通」

     髙野さんが、不安と不思議の混ざったような表情で、全員の頭に浮かんだ疑問を口にした。誰かに都合よく盲目にされていたかのような不気味な違和感が、そこに集まった静香たちの背筋を、冷たく這い上がった。

    「俺たち全員、働きすぎて、頭がイカれてしまったとか?」
    「それは、一理ある」

     藤牧さんが、町田さんに相槌を求める。しかしその目線は、一番後ろに立っている松本社長を真っ直ぐに捉えていた。社長は、少し分の悪そうな気配を察してか、不機嫌そうに視線を逸らし、鈴木副社長の方を見た。

    「お前が朝から社内をほっつき歩いて、無駄話をして回るから、誰も気づかなかったんじゃないか?」
    「うわ、社長ともあろう人が、私のせいにするんだ。ひどいねー」

     こんな異様な空を見ても、不機嫌な松本社長を前にしても、鈴木副社長の飄々とした態度は微塵も崩れない。普段からラフな人ではあるけれど、その肝の据わり方は、さすが副社長といったところだ。平凡な社員である静香には、到底マネのしようもない。

    「そもそも、オフィスに着く前に、家を出た時点で気付くでしょ」

     町田さんのあまりに淡々とした正論が、松本社長の理不尽な責任転嫁を綺麗に論破した。

    「……とにかく、空が赤いからと言って、仕事を投げ出していい理由にはならん」

     松本社長は、論点をずらして声を荒げた。しかし、これ以上は不毛な言い争いになるだけだと全員が察したのか、その場には白けたような、諦めに似た沈黙が重く居座った。

     すると突然、その静寂を切り裂くように、空が、急速にその姿を変え始めた。天上の光景が、加速して歪さを増していく。ゴロゴロと地を這うような重低音が断続的に響き始めたかと思うと、赤黒い不気味な積乱雲が、天を真っ赤に覆っていった。

     先ほどまでは雲一つなく澄み渡っていたというのに、空模様は、まったく異なる様相を呈し始める。

    「待って待って、雲、なんか赤くない!? 町田くん、これ何!」
    「いや、俺に聞かれても。てか雲の動き、早すぎるだろ。こんなの見たことないわ……」

     興奮気味に声を上げる桜木さん。それに小さく応える町田さん。二人の声は、揃って震えていた。その不安が、ここにいる全員に伝播していくのを、静香は肌でひしひしと感じた。

     窓の外の景色は、まるでビデオを早送りしているかのように、目まぐるしく変化していく。そして何より異様なのは、高速で湧き立つ雲のすべてが、血のように赤黒く染まっていることだった。

     まるで、空の裏側に隠されていた別の世界が、薄い膜を破って、この現実に滲み出してきたかのように。静香は、少し前に流行った海外ドラマで、確かこれに似た空を見たことがあったと、唐突に思い出した。

     本当に、何が起きているのだろうか、これは。

    「他の奴らが出社してないのって、この天気が原因?」
    「分かんない。これじゃ、来訪の予定も流れるかもね」
    「雨とか降るのかな、これ……」
    「何か、血でも降ってきそうだよ」

     すぐ側で、髙野さんと山﨑さんが互いに顔を見合わせながら、不安を隠せない様子で、小声で言葉を交わしていた。

     静香は不意に、ぐるりと室内を見渡してみる。今日出社しているのは、松本社長、鈴木副社長、営業部の藤牧さんと美智、デジタル部の町田さん、商品部の桜木さん、マーケティング部の髙野さんと山﨑さん、そして自分。ここにいる九人だけ。

     冷静に考えてみれば、数百人規模の会社だ。この出社人数も、最初から明らかにおかしかった。違和感に違和感を重ねた状況に、静香はますます不安を募らせていく。

    「あの、ニュースとか調べてみませんか? これ、やばいやつですよ。絶対トレンド入りしてますって……」

     美智が、不安そうにスマホを掲げて皆に呼びかけた。じっとしていられない性分なのだろう、その指はもう、デバイスの画面を操作し始めている。

    「っていうか……」

     藤牧さんが、眉をひそめた。

    「さっきから、全く電波繋がんねえんだけど、俺だけか?」
    「あ、私も。読み込み中のまま動かない」
    「俺のも駄目だな」
    「うそ、ほんとだ。繋がんない」

     手の中のスマホを掲げながら、次々と声が上がる。どうやら、繋がらないのは藤牧さんだけではないようだ。この場にいる全員のスマホの電波が、揃って、一切通じていなかった。もちろん、静香のスマホも使い物にならない。念の為パソコンの方でも試してはみたが、結果は同様だった。

    「停電してるわけではなさそうだけど。それにしても、全回線がこんなにピタリと落ちるなんてことが、あるのか……?」

     町田さんは、手元のスマホに目をやりながら、独り言のように呟いている。誰も答えられなかったけれど、確かに、天井の蛍光灯はいつも通り明るく灯っていて、停電が起きているわけではなさそうだ。

    「……おい、お前たち」

     全員が状況を飲み込めずにいた、その時だった。

     松本社長の掠れた声に誘われ、一同は再び窓の外へと目を向けた。赤い雲の隙間から、白い何かが、ひらひらと舞い落ちてくる。

    「これ……雪……ですよね?」

     静香は、降り注ぐ雪の結晶を眺めながら訥々と呟き、フリーズした。

     空の赤色に照らされた、火の粉のような雪。それが、ゆらゆらと揺らめきながら、無数に、空を埋め尽くすように降り注ぎ始めた。美しい朝焼けとは似て非なる、赤黒さを伴った禍々しい光景が、窓の外を不気味に覆っていく。

     冷たいはずの雪なのに、世界が焼かれていくような錯覚がした。静香は呼吸の仕方さえ忘れて、ただ立ち尽くすことしかできなかった。


    <次の話>


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    #0 「苦難の会社員」 あらすじ・プロローグ
    #1 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #2 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #3 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #4 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #5 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #6 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #7 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #8 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #9 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #10 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #11 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #12 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #13 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #14 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #15 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #16 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #17 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #18 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #19 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #20 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #21 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #22 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #23 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #24 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #25 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #26 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #27 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #28 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #29 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #30 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #31 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #32 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #33 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #34 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #35 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #36 「苦難の会社員」 エピローグ

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