
#27 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#27 第三章 苦難のしもべ
目を覚ました美智は、静香と並び立って、呆然と黒い壁を見つめていた。そこには、町田さんと藤牧先輩の名前が、新たに刻まれている。
「先輩……どうして……」
口から漏れたのは、震える掠れ声だった。問いかける相手はもうどこにもいないというのに、ただじっと、その名前を見つめ続けることしかできない。
藤牧先輩は、もう死んでいた。その現実を受け止めきれずに、美智は何度も激しく首を横に振った。嘘だ、何かの間違いだ、と叫び出したい衝動が、喉の奥まで込み上げてくる。
それを見た静香が、無言のまま、ゆっくりと美智を抱きすくめる。溢れ出しそうな絶望をせき止めるように、ぎゅっと、壊れ物を扱うかのようにして、その肩を包み込んだ。
もう、残っているのは三人だけだった。この三人の中で、生きているのは存在しないはずの社員、一人だけ。美智はその現実に言葉を失い、互いの体温を確かめ合うように、静香と身を寄せ合うしかなかった。
二人はその場に、崩れ落ちるように座り込む。
「……私たち、どうなっちゃうのかな」
美智は、すがるような視線を静香に向けて問いかける。
「……分からない」
ややあって、静香は美智の肩に深くもたれかかりながら、自らにも言い聞かせるように、震える声でそう返した。それから、一度きつく唇を噛み締め、しっかりと前を見据えて、こう続けた。
「……けど、もし私たちのどちらかが生きてたら、お互いの分まで、ちゃんと生きようね」
その言葉を聞いた美智の視界は、どんどんと涙で歪んでいく。静香に包まれた自分の手が、じわじわと熱を帯びていく。
「うん……」
言葉にならない声が、嗚咽とともにこぼれ落ちる。美智はただ小さく、けれど確かな決意を込めて頷いた。
しばらく静寂の音を聞いた後、二人は重い足取りで執務室へと上がった。がらんとした空間の中で、山﨑さんが窓際に佇み、黙って外の赤い空を凝視している。その横顔には、すでに全てを察しているかのような諦念が浮かんでいた。
「山﨑さん、もう、私たちしか……」
美智が声をかけると、山﨑さんは、二人の姿をその目に焼き付けるように見つめ返す。
「……二人とも、ごめんね」
「え?」
予想外の言葉に、美智は涙を滲ませたまま、思わず声を漏らした。山﨑さんは、消え入りそうな声で、一語一語を確かめるように語り始める。
「全部じゃないけど、思い出したの」
その言葉の意味を理解するまでに、数秒の空白が必要だった。美智と静香は、思わず顔を見合わせた。
「それって……」
美智の言葉は、その先を見失いぷつりと途切れる。山﨑さんは、悲しいくらいに穏やかな笑みを浮かべた。その輪郭が、窓から差し込む淡い光に溶けるようにして、わずかに揺らいだように見えた。
「……私の時間はもうおしまい。あとは、二人の時間だよ」
そう言うと、山﨑さんは引き留める隙も与えず、凛とした足取りで階段室の方へと歩を進める。
「山﨑さん……!」
隣で静香の叫び声が響く中、その背中はそれ以上何を語ることもなく、静かに扉を閉めて出ていった。
あとに残されたのは、殺伐とした執務室と、冷たい静寂。そして、美智と静香の二人だけ。どちらか一人しか生きられないかもしれないという残酷な現実が、二人の間に重くのしかかる。
張り詰めた空気に耐えかねたように、どちらからともなく、そっと手を繋ぎ合った。手のひらから染み渡るように、互いのぬくもりが、じっくりと伝わっていく。
この温もりのどちらかが偽物だなんて、どうしても信じたくなかった。
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#0 「苦難の会社員」あらすじ・プロローグ
#1 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#2 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#3 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#4 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#5 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#6 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#7 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#8 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#9 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#10 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#11 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#12 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#13 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#14 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#15 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#16 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#17 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#18 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#19 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#20 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#21 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#22 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#23 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#24 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#25 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#26 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#27 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#28 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#29 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#30 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#31 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#32 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#33 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#34 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#35 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#36 「苦難の会社員」エピローグ