
#22 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#22 第二章 罪の記憶
桜木麻衣は、十九階にあるショールームに並んでいる商品サンプルを、ひとり漁っていた。
就寝時を除いて男女のフロアが隔離されているわけではなかったから、ショールームへはいつでも自由に出入りができた。
張り詰めた緊張感の中で幾度も冷や汗をかいたせいか、昨日から着たままでいる服が、酷く肌に張り付くように居心地が悪い。それでたまらず、新しい洋服とインナーを選びに来たのだった。
着替えと合わせてシャワーも浴びたかったけれど、オフィスにそんな設備が整っているはずもなかった。せめてもの気休めにと、冷水で固く絞ったタオルで全身を慌ただしく拭ったら、幾分かましになった気がする。髪の毛は少し重く感じられたけど、こればかりは我慢するしかなかった。
桜木たちのブランドは、EC販売を主軸に据えており、アンダーウェアなどの基礎的なアイテムから、華やかなオケージョンウェアまで、幅広いラインナップを扱っている。
デザイナーの桜木からすれば、自分のデザインした商品がディスプレイされたこのショールームは、さながらプライベートクローゼットのようで、着替えを見繕うのにはうってつけだった。
さらにこの場所は、SNS用のライブ配信会場を兼ねていることもあり、室内には大きな鏡や、柔らかな光を放つ最新のライティング設備が整っている。どこを切り取っても絵になる空間の中で洋服を吟味していると、ちょっとしたモデル気分が味わえた。気分転換になったことも手伝い、必要なアイテムはすぐに決まった。
「あの、桜木さん」
選び取った着替えを持って化粧室に向かおうとした時、後ろから遠慮がちに声をかけられた。
振り返ると、ピンと伸びた背筋とは裏腹に、どこか申し訳なさそうに身を縮めている華奢な人影が目に入る。
経理部の静香ちゃんだった。
「あ、静香ちゃん。どうしたの?」
「えっと、もし良かったら、私の着替えも選んでもらえないかな、なんて」
勇気を振り絞ったようにして、上目遣いにそう切り出した静香ちゃんの提案に、桜木の瞳はパッと輝いた。
「え! なにそれ、めっちゃ楽しそうな提案! いいよいいよ!」
桜木は抱えていた自分の着替えを近くのソファにぽんと放り出すと、早速肩を掴んで、鏡の前へと連れていった。
「わっ、あ、ありがとうございます……!」
次々とラックから服を引き抜いては、鏡の前でそれを当て繕っていく。その勢いに、静香ちゃんは目を丸くしながらも、嬉しそうに頬を染める。それが可愛らしくて、張り詰めていたショールームの空気が、その瞬間だけは本来のきらびやかな空気を取り戻したように感じられた。
「静香ちゃんには、いつもお世話になってますから」
「そ、そんなことないです……! なんだか、桜木さんに服を選んでいただけるなんて、贅沢すぎて緊張しちゃう」
「ふふん、桜木、本気出しちゃうからね」
窮屈な現実から、ほんの少しだけ自由になれた気がして、桜木は強張っていた肩の力が、ふっと抜けていくのを感じた。
このオフィスに閉じ込められた後、ふと顔ぶれを見渡した中で、静香ちゃんがそこにいることは、ささやかな救いだった。町田くんはまた別の意味で気を許せる相手なのだけれど、彼女はまるで、年の離れた妹のように無条件で愛らしい。
日頃から経理の事務作業を淡々とこなす姿は頼もしく、書類の提出が遅れて、いつも迷惑をかけてばかりの自分を、静香ちゃんは信じられないほど純粋に慕ってくれていた。
この会社に就職したもののファッションには疎いらしく、よく「何を着たらいいでしょうか」と、服のアドバイスを求められたものだ。
桜木がどれほど奇抜な洋服を纏ってオフィスに姿を現しても、いつも目を輝かせて「格好いいです!」「可愛いです!」と、それを褒めちぎってくれた。その言葉に一滴の世辞も嘘も混ざっていないことが、あまりに澄んだ瞳を見れば、すぐに分かった。
桜木は、その真っ直ぐな目が好きだった。彼女の裏も表もないその真っ直ぐさは町田くんと同じで、桜木がこの場所で、心から信頼できる数少ない社員のひとりだ。
「よし、完璧」
桜木の手元に揃ったのは、体にぴったりフィットする黒のタートルネックのニットと、鮮やかなマスタードイエローのロングスカートだった。
「静香ちゃんは姿勢正しくて、ウエストがすごく細いから、上がすっきり、下がふわっと広がる、メリハリのある形にしてみた!」
「素敵……! 自分ではあまり選ばない感じです……!」
「あ、これ、持ってて。ちなみに、私とシミラールックなの」
桜木は自分用に選んだ着替えの洋服を持ち上げると、鏡に映る自分の身体にそっと重ね合わせた。選んでいたのは、優しいクリーム色の中に少しだけ黄色みを帯びたニット、すとんと落ちるような黒のロングスカートだ。
互いの上下のカラーがクロスするように組み合わさっていて、鏡の中にはまるで最初から計算していたかのような、シミラールックの綺麗な配色が並んでいた。
「なんだか、特権をいただいたみたいで、胸がいっぱい……」
鏡に映る二人の統一感に気づいた瞬間、静香ちゃんは宝物を見つけた子どものように、頬を一段と緩ませた。
「じゃあ、早速着替えちゃおっか!」
桜木の提案を合図にして、二人は化粧室に向かうことにする。着替えを済ませて鏡の前に並び立った瞬間、思わず二人で顔を見合わせて笑ってしまった。
計算された色合いのおかげで、まるで仲の良い本物の姉妹が、そこに立っているみたいだった。オフィスに閉じ込められている現実すら一瞬忘れてしまうほど、一気にテンションが跳ね上がる。
「……なんだかソワソワしちゃって、執務室に戻るの、ちょっと緊張します」
静香ちゃんは、桜木と肩を並べて華やかに仕上がった自分の姿が、どうしても照れ臭いらしかった。
「大丈夫、最高に可愛いから」
桜木はその様子を見て、ふふんと誇らしげに胸を張り、鏡の中にウインクを飛ばした。
記念に何枚かツーショットの写真を撮ってから、二人は化粧室を後にする。桜木は、喫煙所へ寄った後に散らかしたショールームを片付けようと考えていたため「早くみんなに見せておいで」と、静香ちゃんの背中を優しく見送った。
一人になって十九階の薄暗い喫煙所に入ると、無意識に張り詰めていた神経が、わずかに緩んだ。おろしたての服に包まれた安心感も手伝ったのだろうか。泥のような疲労感が、唐突に桜木を襲ってくる。
社長と鈴木さんが突然いなくなってから、もう半日以上が過ぎていた。この中で最も苦手だった二人が真っ先にここを脱出してくれたのは、桜木個人の感情としては、せいせいしたというのが正直なところだ。
けれど、これでようやく一息つける、なんていう甘い状況でもなかった。目上の人の威圧感のようなものは感じなくなったものの、あの二人がいなくなった後も、このオフィスに居座る奇妙な緊張感は、一向に薄れる気配がない。
加熱式タバコをデバイスにセットすると、微かな振動の後、独特の香ばしい匂いが漂ってくる。桜木は、深呼吸するようにゆっくりと煙を深く吸い込み、ふうっと息を吐き出した。
それと同時に、桜木は奇妙な感覚に囚われた。
白く霞む空気を目で追っているだけなのに、それが妙にスローモーションのように感じられ、焦点がうまく合わなくなっていく。
吐き出した煙が、まるで自分の身体を絡めとるように覆い被さり、まとわりついて離れない。
視界の端からじわじわと光が失われたかと思うと、桜木は壁に身体を預けたまま、ゆっくりと力なく崩れ落ちた。
握りしめていたデバイスが指先から離れ、宙に投げ出される。それが床に着くのを見届ける前に、意識の糸はぷつりと途切れ、桜木は深い闇の底へと、真っ直ぐに呑み込まれていった。
<次の話>
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#0 「苦難の会社員」 あらすじ・プロローグ
#1 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#2 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#3 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#4 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#5 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#6 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#7 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#8 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#9 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#10 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#11 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#12 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#13 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#14 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#15 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#16 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#17 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#18 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#19 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#20 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#21 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#22 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#23 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#24 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#25 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#26 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#27 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#28 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#29 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#30 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#31 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#32 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#33 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#34 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#35 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#36 「苦難の会社員」 エピローグ