
#28 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#28 第三章 苦難のしもべ
二人に別れを告げた山﨑は、背中に視線を浴びながら、こらえきれずに涙を滲ませていた。
自分がすでに死者なのだと理解してなお、自らの意志で幕引きへと歩を進める現実に、恐怖で足がすくみそうになる。
どうして、こんな残酷な結末を選ぶしかなかったのだろう。置いてきてしまった『その人』への、引き裂かれるような罪悪感が、背中に重くのしかかる。
執務室を出たあとドアを閉めると、その瞬間に、山﨑の視界は一切の光を失ったように、唐突に暗転した。
次に気がついた時、山﨑は生々しい肌の冷たさとともに、天井を見つめていた。一枚の衣服すら身にまとわない、全裸の状態で自分が横たわっていることに気づく。
戸惑いながら見回した視界に飛び込んできたのは、あの無機質なオフィスではなく、見覚えのある場所だった。
ここは、髙野くんの家だ。
鼻をついたのは、部屋に充満したひどい酒の匂い。カーテンの隙間から差し込む無遠慮な朝の光が、アルコールの残る頭を容赦なく刺激する。山﨑は、重い頭を抱えながら、必死に記憶を遡った。
髙野くんの家に行ったのは、オフサイトの前日だった。
次の日、某ブランドの担当者が来訪してくるという予定は、オフサイトの記憶に靄をかけるための、精巧なフェイクだったわけか、と山﨑はそこで気づく。
山﨑はあの日、遅くまで残業をしていた。それは『その人』たちと一緒に、提案用の資料を仕上げるためだった。何とかしてこのプロジェクトを成功させたいと、互いを鼓舞し合い、強い絆で結ばれていたメンバー。山﨑はその中でも一番年上で、一番先輩の立場だった。
そのメンバーは、美智ちゃん、静香ちゃん、そして山﨑の三人。
その三人は、オフサイトまでの二週間弱、毎日のように残業を重ねていた。経営陣へのプレゼンとなると、相当な覚悟と準備が必要だ。だから、深夜になっても誰も弱音を吐かず、数字の狂いや表現の微細なニュアンスに至るまで、文字通り血の滲むような推敲を繰り返していた。
すべては、他のプロジェクトメンバーと、あの厳しい経営の二人を、完全に納得させるためだった。
資料がようやく完成したオフサイトの前夜に、髙野くんから呑みに誘われた。疲れからか、静香ちゃんがデスクに突っ伏して眠ってしまっていたので、美智ちゃんが、彼女が起きるのを待ってからオフィスを出てくれるということになった。山﨑は、先にオフィスを後にした。
山﨑の家は茨城県にあり、普段はつくばエクスプレスに乗って、都内へと通勤している。けれど、翌日の集合時間がかなり早かったため、同じ部署の髙野くんの提案で、オフィスの近くの家に泊めてもらえることになっていた。終電の概念がないから、時計の針を気にする必要もなかった。
この時の山﨑はすでに、会社を辞めることを決めていた。
何か決定的な出来事があったというわけではなかった。ずっと、辛かった。塵が積もるように経営陣への不信が募り、それが限界を迎えてしまったのだ。だから、今回の資料作りが、山﨑にとっての最後の大仕事だと思っていた。
けれどあの夜、お酒を口に運ぶ手をどうしても止められなかったのは、仕事が終わった安堵感のせいではなかった。
理不尽な会社の中で、奇跡のように純粋なまま努力を続ける静香ちゃんと美智ちゃんが、あまりにも健気で、胸を締め付けられたからだ。その姿に結衣のことを重ねて、怖くなったからだ。
もしも彼女たちの真っ直ぐな努力が、すべて無慈悲に踏みにじられてしまったら──そんな最悪の未来が何度も脳裏をよぎり、拭い去ることができなかった。その胸の疼きから逃れるためには、ただひたすらにアルコールを喉へ流し込むしかなかったのだ。
髙野くんと一線を越えてしまったのも、そのやるせなさの延長線上の出来事だった。あの夜は、とにかく無心になりたかった。ただ、他人の体温に縋ることで、頭を支配する不吉な予感や理不尽な現実から、一瞬でもいいから目を背けていたかった。
そうして、オフサイトの当日を迎えたのだ。
集合場所のオフィスへと向かう道すがら、スマホの画面に目を落とすと、グループチャットには、すでに美智ちゃんと静香ちゃんからの連絡が入っていた。
『私たち今、オフィスの前につきました!』
『資料も昨日帰る前に、共有サーバーに入れてあります。絶対に成功させましょうね!』
山﨑は一言『うん、頑張ろうね!』と返事をした。
研修施設に到着すると、すぐにカンファレンスルームで会議を始めることになった。最年長の自分が、二人を支えなければならない。山﨑は会議が始まる直前、無理に微笑みを作り、二人の肩をそっと叩いた。
実際にプレゼンをする役回りは、『その人』が一人で背負うことになっていた。山﨑はこういったシーンでよく社長から怒鳴られたことがあったし、心象的に不利になる可能性があった。山﨑の躊躇いを察したのか、その役割の重責を理解した上で、『その人』は自ら進んで矢面に立つ手を挙げてくれたのだった。
プレゼンが始まると、最初は順調に見えた。何度も推敲した提言内容に反論の余地はなかったし、準備してきた成果が、少しずつ結実していくのを感じた。これまでの苦労がすべて報われる瞬間が、すぐそこまで来ているのだと、山﨑は信じて疑わなかった。
けれど、中盤に差し掛かった、その時だった。
「──待て。この適当な内容はなんだ」
松本社長が、冷酷な声で進行を遮った。彼が指差したのは、今回の提案の根幹を支えるはずの、大切なページだった。
「こんな出鱈目な資料で、よくもまあ持ってこられたものだな」
心臓が、ドクリと跳ねた。山﨑は目を疑った。スクリーンに映し出されている内容が、昨夜三人で何度も確認したはずのものと、違っていたのだ。明らかに誰かによって、意図的に書き換えられていた。
「違うんです、あの……え、どうして……」
『その人』も、目の前の現実への理解が追いつかないのだろう。震える唇から、言葉にすらならない掠れた息が、困惑を帯びて漏れ出していた。
「どうした。自分の言葉で説明できないのか?」
松本社長の冷徹な追及が、逃げ道を塞ぐように会議室に響き渡る。助けに入らなければ。そう焦る山﨑の視界の端で、一人の男が静かに挙手をした。髙野くんだ。
救いの手が差し伸べられる──そう思ったのも束の間、彼の口から飛び出したのは、耳を疑うような言葉だった。
「はっきり言って、時間の無駄だと思います。共有サーバーのデータを一通り拝見しましたが、素人の思いつきレベルの致命的な欠陥だらけです。自分たちの都合のいい結論に導くために、数字を故意に改ざん、あるいは捏造したんでしょう」
髙野くんの口調には、これっぽっちの淀みもなかった。ああ、彼がこれをやったのだ、と冷や水を浴びせられたような確信が、山﨑の脳裏に突き刺さった。
「松本社長、あの……!」
見ていられず、山﨑は声を絞り出した。机の下で握りしめた拳は、爪が皮膚に食い込むほどに震えている。
その瞬間、松本社長から返ってきたのは、不快極まりないといったような、強烈な睨みだった。隣の鈴木副社長からも、冷酷な侮蔑を湛えた目線が突き刺さる。
その場にいる他のメンバーからも、似たような視線が飛んでいた。明らかに異常だった。山﨑たち以外にも、不満の声を上げているメンバーがほとんどのはずだった。意見した内容も、皆の意見を集約したようなものだ。なのに全員が、必死にプレゼンした『その人』のことを、腫れ物に触るような目をして見つめている。
山﨑の心の中には、かつて同じような会議で自分が無惨に吊し上げられた時のトラウマが、一気にフラッシュバックした。心臓が早鐘を打ち、肺の空気がすべて引き抜かれてしまったかのように、息が詰まった。激しい動悸と、芯から湧き上がるような身体の震えが、どうしても止まらなかった。
「山﨑、やめとけ」
遮るように、髙野くんが冷ややかに言い放つ。それを受けて山﨑は、耳の奥で鳴り響く心音に耐え兼ねるようにぐったりと俯き、その場で黙り込んだ。
山﨑と同じように、『その人』も、もう一人も、あまりの理不尽さに何かを必死に訴えようと唇を動かすものの、凍りついた空気の重圧に喉を締め付けられ、ただの一言も発することが難しいようだった。
それから、容赦のない同調圧力に満ちた冷たい眼差しは、徐々に、『その人』一点へと向かっていった。地獄のような会議が幕を閉じた直後、すべての泥を背負わされ、矢面に立った『その人』だけが、社長と副社長の待つ施設の奥の部屋へと呼び出された。
そこで、どんな酷いことを言われ、尊厳を傷つけられたのか、山﨑には知る術がない。山﨑は、また、守り切れなかった。むしろ『その人』一人に、背負わせてしまった。
いくら待っても、『その人』は、懇親のバーベキューに姿を現さなかった。心配に思った山﨑は、もう一人と共に会場を抜け出し、必死に『その人』を探し回る。
施設中をくまなく探し回ったあとに、二人がようやく発見したのは、『その人』ではなかった。
静まり返った部屋の床に、彼は横たわっていた。視界に飛び込んできたあまりにも凄惨な光景に、山﨑は自分の目を疑い、全身の血が凍りつくのを感じた。
そこにいたのは、胸に鋭利なナイフを深く突き立てられ、あふれ出る鮮血に身を染めながら、苦しげに喘いでいる藤牧さんの姿だった。床に広がる赤黒い血だまりが、ドクドクと命の終わりを告げるように広がっている。
「何……これ……?」
そこで、山﨑の視界はぐにゃりと歪み、天と地がひっくり返るような急激な眩暈に襲われた。激しい吐き気とともに、意識が激しく明滅する。
次に気がついた時、山﨑は、別のところにいた。見覚えのある二十階のフロアから、さらに上へと暗く伸びる階段の前に、ぽつんと立っていた。そこにあったはずの黒い壁は、姿を消している。
山﨑の脳裏に、濁流のような記憶が呼び覚まされていく。
あの時、血の海に倒れている藤牧さんを目撃した後、自分たちに一体何があったのか。その結末を、山﨑はすべて思い出した。
山﨑の口元に、泣き出しそうな、けれどどこか、すべてを受け入れたような儚い笑みが浮かぶ。山﨑は静かに息を吸い込み、背中に残してきた『その人』に向けて、丁寧に言葉を紡いだ。
「あなたは、生きていいんだよ。……私のこと、恨まないでね」
それが、山﨑がこの世界に残した最後の言葉だった。言い終えると、山﨑はもう振り返ることはせず、一段、また一段と、暗闇の奥へと続く階段をゆっくりと登っていく。
重圧から解き放たれるように、ただ確かな足取りで、一歩一歩、歩みを進めた。
響く足音は、まるで最期の時を刻む秒針のように孤独なリズムで、閉鎖されたオフィス全体に響き渡った。
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