メインコンテンツへスキップ
見出し画像

#31 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ

    #31 第三章 苦難のしもべ


     オフサイトの前日の夜。山﨑さんが一足先に帰路につき、しんと静まり返った執務室で、美智はデスクに突っ伏して眠る静香の横顔を、じっと眺めていた。

     長いようで、あっという間だった二週間。美智の提案から始まった無謀な挑戦に、目の前の静香は文句一つ言わず、身を粉にして一緒に伴走してくれた。

    (ありがとう)

     心からの感謝を込めて、美智はそっと心の中で呟いた。あまり遅くなってしまっては、明日の本番に響いてしまう。美智は愛おしさを堪えながら、眠っている静香の肩を優しく揺すった。

    「……起きて、静香」
    「……ん……」

     静香は小さく身じろぎをして、ゆっくりと目を開けた。寝ぼけ眼で辺りを見回し、自分がまだオフィスのデスクに突っ伏していたことに気づくと、ハッとして勢いよく身体を起こした。

    「ごめん、私、寝てた……!? 資料、資料は……?」
    「大丈夫、全部終わったよ。これ」

     美智はパソコン画面で資料を開いて、静香の方にそれを向けて見せた。静香はそれを見て、ようやく深く長い息を吐き出し、座っていた椅子の背もたれに体重を預けた。

    「明日は早いし、急いで帰るよ」

     美智の提案を合図にして、二人はいそいそと帰り支度を始める。オフィスの電気を消して、暗くなった執務室を振り返ると、窓の外には、煌々と輝く東京の夜景が広がっていた。美智にはそれが、不思議と自分たちを祝福してくれているかのように見えた。

     次の日、研修施設に着くと、日本の田舎の風景が広がっていた。けれど、大事なプレゼンを控えた美智には、目の前の景色を堪能する余裕は到底なかった。チェックインを済ませると、すぐに会議が始まるスケジュールになっている。

     三人を代表して、プレゼンの大役は美智が引き受けることになっていた。この提言を最初に計画したのは、自分だ。二週間、皆と協力して死ぬ気で詰め切ったこの資料なら、必ずうまくいく。そんな絶対的な自信が、美智の胸には満ちあふれていた。

     頼りになる山﨑さんも協力してくれたし、藤牧先輩も時間が無いながら、隙間時間で資料をチェックしてくれた。失敗するようなイメージは、逆立ちしても想像ができなかった。

     会議が始まるとすぐに、山﨑さんが自然な流れで美智に目配せを送った。美智は深く息を吸い込み、全員の視線が集まるプロジェクターの前へと歩み出る。

     スクリーンの白い光を背に受けて、美智は静かに口火を切った。

     声は、思ったよりも震えなかった。繰り返したリハーサルの通りに、言葉がするすると口をついて出てくる。現状のスケジュールが抱えるリスク。各部署から吸い上げた具体的な懸念。そして、プロジェクトを潰すためではなく、成功させるための現実的な軌道修正案。

     誰よりも、このブランドが好きだから。その想いを羅針盤にして、美智は一枚、また一枚と、スライドをめくっていった。

     手応えは、確かにあった。この提言は、美智ひとりのものではない。皆の声を束ねた、現場の意見の集約だ。この後、先輩たちからもフォローが入って、プロジェクトの方向性はきっと見直されることになる。話しながら、美智はそう確信していた。

     だから、松本社長から資料の不備を指摘された瞬間、美智は最初、何を言われたのか理解できなかった。

     松本社長の指先が、スクリーンの一点を差している。提案の根幹を支える、大切なページ。視線を向けた美智は、心臓が凍りつくのを感じた。

     違う。

     内容が、違う。昨夜、三人で何度も、何度も確かめたはずの資料と、まるで違うものがそこに映し出されている。数字は桁が狂い、根拠を失い、素人目にも杜撰だと分かる出鱈目な内容に、すり替わっている。

    「違うんです、あの……え、どうして……」

     喉から漏れたのは、言葉の体すら成していない、掠れた息だった。頭の中が、真っ白になる。

     誰が。どうして。何のために。思考が空転して、足元の床が抜け落ちていくような感覚だけが広がっていく。額から、背中から、嫌な粘り気を帯びた冷や汗が、どっと噴き出して止まらない。

    「どうした。自分の言葉で説明できないのか?」

     松本社長の冷たい追及が、逃げ道を塞ぐようにその場に響き渡る。その時、視界の端で、すっと手が挙がるのが見えた。

     髙野さんだ。

     ああ、良かった──安堵しかけた美智の胸に、続く言葉が刃のように突き立った。

    「はっきり言って、時間の無駄だと思います」

     え、と声にならない声が漏れる。

     どうして?

     数日前、応援してくれると、あんなに優しく笑ってくれたのに。縋るように髙野さんの目を見たけれど、そこにはもう、あの日の温度は一滴も残っていなかった。

    「松本社長、あの……!」

     山﨑さんの声がした。振り絞るような、悲鳴に近い震えた声。けれどそれも、その場を凍り付かせる冷ややかな空気に、あっけなく押し潰されてしまった。

     美智は溺れるように、会議室を見回した。

     助けて。誰か。

     桜木さんと、目が合う。けれど桜木さんは、美智と目があった瞬間に、すっと視線を手元に落とした。唇は、固く結ばれたまま動かない。

     藤牧先輩を探した。先輩は、腕を組んで、じっと机の一点を見つめていた。頼りになる、大好きな先輩。資料にも目を通してくれた。だから、本当の資料の内容も知っているはずだった。けれど、顔を上げてくれない。一度も、こちらを見てくれない。

     町田さんの席は、空いていた。普段なら、誰よりも冷静に援護してくれたはずの人が、今日に限って、この場にいない。

     偶然の、はずがなかった。

     全部、最初から決まっていた。自分たちだけが台本を知らされないまま、踊らされていた。

     静香が、隣で唇を震わせているのが分かった。何かを言おうと必死に息を吸って、けれど張り詰めた空気に喉を締め上げられて、声になっていない。いいよ、と美智は思った。静香まで、この視線に晒されなくていい。

     憐れみでも、怒りでもない。腫れ物を見る目。異物を見る目。ついこの間まで同じ船に乗っていたはずの人たちの目が、音もなく、美智を輪の外へと締め出していく。

     自分が愛したブランドのために、と信じて走り抜けた二週間が、ぐしゃりと音を立てて、踏みつぶされてしまった。

     その後、会議がどうやって終わったのかは、よく覚えていない。

     気がつくと、美智は片付けの喧騒の中に立ち尽くしていた。ふと、近くを通りかかった桜木さんに、無心で声をかけようとする。

    「ごめん、話しかけないで。巻き込まないでくれる……?」

     振り向きもしない、鋭利な一言だった。伸ばしかけた指先が、行き場を失って宙で固まる。

     藤牧先輩は、気まずそうにして足早に会議室を出て行った。守ってくれるはずの信頼する上司までが、美智のことを見捨てたのだ。

     足元から、自分の心の中にある何か大切な柱が、ゆっくりと軋みながら折れていく音がした。

    「美智ちゃーん、ちょっといいかな?」

     背後から、場違いなほど軽やかな声がかかる。振り返ると、鈴木副社長が笑いながら手招きをしていた。その隣で、松本社長が無言のまま、不機嫌そうにして立っている。

     美智は、鉛のように重い足を、一歩ずつ引きずるようにして歩き出した。山﨑さんと静香が心配して声をかけようとしてくれたけど、美智は二人からも、逃げるようにして部屋を出た。

     正々堂々と戦って、その上で自分たちの力不足を突きつけられたのだとしたら、まだ諦めもついたはずだった。けれど、これはそんな綺麗な話ではない。自分たちは最初から、戦う土俵にすら立たせてもらえなかったのだ。

     裏切られ、嵌められた。そのあまりに理不尽な真実が、美智の心を激しく殴りつけていた。

     もう、誰の顔も見られなかった。その場にいる誰を信じていいのか、分からない。山﨑さんと静香のことは信じられる。けれど、二人には別の理由で、どうしても顔を向けられなかった。

     自分の胸のうちに湧き上がってくる感情があまりに黒くて、ぐちゃぐちゃで、自分でもコントロールがつかない。怒り、悔しさ、そして何より、大好きな二人まで巻き込んでしまった申し訳なさが津波のように押し寄せ、美智の心をズタズタに引き裂いていく。

     その後、個室に入って、鈴木副社長に執拗に浴びせられた言葉は、美智の心を完全に破壊してしまった。

     もう、正気ではいられなかった。

     美智はこれまでの人生において、他人のことをこれほど恨み、憎んだことなんて、一度だってなかった。

     それでも、美智には分かった。

     五臓六腑を駆け巡る、どうしようもない感情。

     この暗い衝動は、もう、美智には止めることのできない「殺意」なのだということを。


    <次の話>


    <リンク>
    #0 「苦難の会社員」 あらすじ・プロローグ
    #1 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #2 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #3 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #4 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #5 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #6 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #7 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #8 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #9 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #10 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #11 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #12 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #13 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #14 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #15 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #16 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #17 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #18 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #19 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #20 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #21 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #22 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #23 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #24 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #25 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #26 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #27 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #28 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #29 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #30 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #31 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #32 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #33 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #34 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #35 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #36 「苦難の会社員」 エピローグ

    あなたへのおすすめ