
#26 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#26 第二章 罪の記憶
藤牧は、十九階のショールームで天井を見上げていた。どこで眠っても良いということになったけれど、昨日眠ったのと同じ場所が落ち着くだろうと思い、一人でここに来た。
蛍光灯の明かりは灯ったままだ。遮光用のブラインドも開いていて、フロアはかなり明るかった。自分一人のためだけに、わざわざ寝床を整えるエネルギーなど残っていない。だから藤牧は、何も手を加えない剥き出しの空間のまま、そこにあった応接用のソファに、ただ身体を投げ出していた。
──ここは死後の世界で、生きているその人が存在しないはずの場所なのだとすれば、全て辻褄が合う
町田の言葉が、頭の中をこだまする。
自分は、すでに死んでいるのかもしれない。現実感のない響きに「はあ」と、ため息が溢れた。
最初に上層部の二人がオフィスから消えた時、藤牧は理不尽な怒りに駆られていた。現場にすべてを丸投げし、ただ従業員の集めた蜜を吸う特権階級。その圧政のせいで、どれほど多くの優秀な営業部員が心を病み、組織を去らざるを得なかったことか、分からない。
それなのに、あの人たちが一番にこの閉塞感から抜け出せたのか、と爪を噛んでいた。けれど、とっくに死んで脱落していたのだ。そう気づいた途端、嫌悪感は消え去り、ただただ、せいせいしたという思いだけが残った。
何度も、この会社を辞めてやろうと考えたことがある。それでも、ここまで辞めずに続けてきたのは、美智を始めとした営業部の後輩たちがいたからだ。実直に働きつめる彼女らを見ると、どうしても放っておけなかった。
藤牧は、ゆっくりと目を閉じる。
どうしてかは分からなかった。瞼の裏には、日本の田舎の風景が広がっていた。
目の前を、綺麗な川がさらさらと音を立て、どこまでも澄んだ水を湛えながら流れている。空気は、秋の深まりを感じさせた。自分の肌がわずかに粟立つような、心地よい肌寒さを覚える。ここは、あのオフサイトの日に訪れた研修施設だと、藤牧はややあって理解した。
信じ難い気持ちで、これは一体どういうことなのかを考える。今まで自分が眠っていた場所は、ショールームはどうなったのか。閉じ込められていたあのオフィスは幻想だったのか。それとも、今立っているこの場所が、幻想なのだろうか。もしかすると、ここは死後の世界なのではないか。やはり自分は死んでいたのか──。
ぐるぐると思考が混濁し、ただ呆然と佇む藤牧の背中に、ひどく場違いなほど平然とした声が飛んでくる。
「藤牧、何突っ立ってるの?」
藤牧の肩をぽんと叩いたのは、町田の声だった。町田は、藤牧のことを不思議そうな目で見つめている。
「蛍のシーズンなら、とっくに終わってるよ」
「町田、なんでお前までここに……」
掠れた声で問いかける藤牧に、町田はただ「何言ってるんだ」とでも言いたげに、苦笑いを浮かべるだけだった。
「みんなもうバーベキューの準備してるぞ。藤牧も早く来いよ」
「ああ、ちょっと待ってくれ……」
町田は振り返り、施設の建物の方へと歩き出す。その後ろ姿を見て、記憶がどんどんと蘇る。それは、不思議な感覚だった。
あの時、藤牧はひとり清流を眺めながら、胸につっかえた後悔と対峙していた。どうして『その人』に手を差し伸べてやれなかったのだ、と。なぜ『その人』の側に立って、共に戦ってやれなかったのか。激しい自責の念だけが、美しく澄んだ川の流れとはあまりにも対照的に、藤牧の心をかき乱していた。
松本社長に提示された条件は、破格だった。
営業部とマーケティング部を独立させ、執行役員として藤牧にその全権を委ねるというのだ。目の前でふんぞり返る能無しに振り回されず、現場を正常に機能させられるチャンスだった。
何より、自分がその座につけば、理不尽に潰されていく後輩たちの防波堤になれる。責任感の強さゆえに、藤牧は己に言い訳を用意した。このオフサイトで一度だけ、目を瞑ればいい。その先に得られる果実の魅力に、藤牧は魂を売る決意をした。
けれど、現実はあまりにも残酷で、見ていられるものではなかった。目の前で『その人』の心が、音を立てて折れていく。さらに胸を締めつけたのは、自分以外のメンバーも、皆同じように上層部に買収され、黙り込んでいるという事実だった。
未来の利己的な大義の生け贄となった『その人』に対する、あまりに重い罪悪感が、目の前の清流の川上から途切れることなく押し寄せては、藤牧の心を侵食していく。
そしてあの夜、藤牧は『その人』の部屋を訪ねたのだった。
バーベキューにも一切姿を見せなかった『その人』のことが、どうしても頭から離れなかった。張り裂けそうなほど限界を迎えていたであろうその心を案じ、彼は生存を確認するかのように、声をかけに向かった。
意を決してノックをしたが、返事はなかった。
静まり返ったドアの向こうから、かすかな気配を感じる。それを察知した藤牧は、躊躇うことなくドアノブを回した。鍵は、かかっていなかった。
「……っ!」
次の瞬間、目の前の景色がぐにゃりと歪んだ。
藤牧が次に気がついた時、階段室の中にある黒い壁の前に立っていた。
さっきまで自分が目の前にしていた『その人』の姿は、もうそこにはなかった。けれど、どういうわけか、この黒い壁の向こうに、確かに『その人』の気配を感じる。
藤牧は、一歩ずつ黒い壁に近づいていく。よく見ると、そこには町田の名前も刻まれていた。
(あいつは、先に逝ったんだな)
壁に指先が触れた刹那、鋭い痛みがちくりと走った。
壁の向こうから聞こえてきたのは、『その人』の嗚咽だった。『その人』は声をわんわんと激しく震わせ、まるで広大な暗闇の中にぽつんと置き去りにされた幼子のように、ただひたすらに、救いを求めて泣きじゃくっていた。
(ああ、俺はこれを見捨てたんだ)
都合の良い大義名分で綺麗に飾り立てた己の選択が、どれほど残酷なエゴであったのかを、この剥き出しの慟哭が証明していた。
あの夜、自分が部屋のドアを開ける前に、『その人』はもう、誰にも届かない暗闇の底でこうして泣き叫び、修復不可能なほどにへし折られた心を抱いて、絶望し尽くしていたのだ。
自分が未来で守りたかったはずの一人は、その未来が訪れるよりもずっと前に、すでに壊れ果てていた。
やがて、足元から冷たい水が、じわじわと迫り上がってくるのを感じた。どこからともなく溢れ出した水は、あっという間に床を浸していく。
それはあの日、藤牧が一人で見つめていた清流が運んできた罪悪感のようでもあり、壁の向こうで泣きじゃくる『その人』の流した涙のようでもあった。
藤牧は、一歩も動かなかった。
ただ静かに水位を増していく階段室の中で、そのすべてを受け入れるように佇んだ。
水は、藤牧の胸を、顎を、そして視界を、ゆっくりと覆っていく。
階段室のすべてを覆い尽くした水は、その凄まじい重圧に耐えかねたように、黒い壁の表面に微かな亀裂を生じさせた。
次の瞬間、みしりと音を立てて壁にぽっかりと穴が空き、堰を切ったように、その向こう側へと激しく流れ出す。
藤牧の罪悪感も、その場に留まり続けたすべての悔恨も、壁の向こう側へと音を立てて吸い込まれていく。
藤牧は目を瞑り、逃れられない感情とともに、どこまでも深く、静かに、闇の底へと呑み込まれていった。
***
ひとつ。ふたつ。みっつ。
『その人』は、明かりが消えるのを見届けた。
闇の中に佇む、黒い塊。
ここに、全部を閉じ込めてしまおう。
この感情は、もう、止まらない。
壊れた心に、ブレーキは、ついていないのだから。
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#0 「苦難の会社員」あらすじ・プロローグ
#1 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#2 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#3 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#4 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#5 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#6 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#7 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#8 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#9 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#10 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#11 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#12 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#13 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#14 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#15 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#16 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
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#21 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#22 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#23 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#24 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#25 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#26 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#27 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#28 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#29 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#30 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#31 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#32 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#33 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#34 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#35 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#36 「苦難の会社員」エピローグ