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#7 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空

    #7 第一章 午前九時の空


     静香は美智と二人、給湯室の近くで身を寄せ合っていた。

    「ねえ、静香」

     美智は、声を潜めて呟いた。先ほどまでの快活さはどこにも見当たらず、その指先が僅かに震えているのが分かった。常軌を逸した状況だ。そうなってしまって、当然だと思う。

    「この天気、何だと思う……?」
    「桜木さんが言ってた通り、異常気象としか言いようがないね」

     静香は、努めて冷静なトーンを意識しながら、言葉を返す。

     どうしてか静香は、不安そうな美智を目の前にした時、自分でも驚くほどに強がって見せる節がある。普段の美智は快活な子だから、滅多にそうなることもないのだけれど。

    「大丈夫かな。帰れなくなったりしないよね?」
    「大丈夫だよ、多分」

     今は返す言葉が、それしか見つからなかった。

     結局、松本社長はこの異常気象を前にしても、通常通り業務にあたれの一点張りで、特に帰宅命令を出したりはしなかった。

     電波が繋がらないというのに、一体、何をすれば良いというのか。

    「なんか、配属されたばかりの頃を思い出すね」
    「え?」

     美智が、どこか遠くを見つめながら話し始める。

    「私も静香も、お互い最初は何したらいいか分からなくてさ、よくこの給湯室に来て二人で話してた」
    「あー……、確かにそうだったね」

     そんな時期が、確かにあった。経理部に配属された当時は、研修という名目で簡単なエクセル関数の課題を出されるだけで、時間が余って仕方がなかった。手持ち無沙汰な静香が暇つぶしによく給湯室に逃げ込んでいると、そこで怪しげにうろうろしている美智と、よく遭遇したのだった。

     思えばあの時も、今にも泣きそうな美智のことを、放っておけなかったんだっけ。異なる部署の二人だったけれど、美智には何か他の人とは違う、不思議な縁を感じることがある。

    「私、あの時は藤牧先輩のこと少し苦手で、ちょっと怯えながら仕事してたんだよね。この人、すごい怖い人なんじゃないかって。それで、不機嫌そうな時は、ほとぼりが冷めるまで給湯室に隠れてた。今ではすっかり頼りっきりだけどさ」
    「知ってる。本当に、あの時の美智は、なんであんなに怖がってたんだろうね。今は横から見てて、良い師弟コンビだと思うよ」

     静香の言葉に、美智は「師弟って言うな」と小さく笑った。その顔からは、先ほどまでのこわばりが一瞬だけ消えて、少しばかり、いつもの快活さが戻ったように見えた。

    「はあ。何でもいいから、今日はもう帰りたいな……」
    「それは、私もだよ」

     その時、藤牧さんがエレベーターホールの方へと、慌ただしく走っていくのが見えた。

    「先輩っ……!」

     美智は慌てて立ち上がり、すかさず声をかける。

    「どこ行くんですか……?」
    「ああ、美智か。ちょっと降りて様子見てくるわ。相変わらず電波は繋がらないし、仕事にならねえ。警備員でも捕まえて、詳しく状況聞いてくる。さっき試したけど電話も圏外で、誰にも繋がらなかったよ」
    「さすがです……。何か分かったら私たちにも教えてくださいね」

     美智の言葉に、藤牧さんは振り返ることなく片手を小さく掲げると、そのまま弾かれたように執務室のドアを飛び出していった。彼が戻ってきたら、何かが分かるかもしれない。そんな微かな期待が、静香と美智の間に漂った。

     けれど、その期待は思いのほか早く外れることになる。数分も経たないうちに、藤牧さんが足音荒く戻ってきたのだった。

    「出られねえ……」
    「え、どういうことですか?」

     静香は、藤牧さんの言葉の意味を理解できなかった。美智も、怪訝そうな顔つきで彼を見つめ返している。

    「エレベーターが動かない。ボタン押しても、全く反応なし」
    「そんな……停電してるわけじゃないのに」

     美智が、信じられないといった様子で目を丸くしている。

    「で、仕方ないから階段使おうとしたらさ、下りられないんだよ。十九階から下が、壁になってる」
    「……壁、ですか?」

     静香の口から、間の抜けた声が漏れた。言葉の意味が、すぐには飲み込めなかった。

    「十九階までは行けるけど、その先、踊り場の所でごっそり塞がれてる。ツルッとした黒い壁で。上も確かめてみたけど、二十階から上に行く階段も同じだった。俺たち、完全にこのオフィスに閉じ込められてるわ」
    「先輩、何馬鹿なこと言ってるんですか……?」

     美智が言った。そうだ。そんな馬鹿なこと、あるはずがない。エレベーターが止まっただけならまだしも、突然、階段に黒い壁が現れて、閉じ込められただなんて。何かの拍子に防火扉のようなものが閉まったというのならまだ納得ができるが、どうやら、そうした現実的なトラブルの類ではないようだった。

    「マジだって。信じろよ」

     藤牧さんは、何度も説明を繰り返した後でそう言うと、不機嫌そうに美智を軽く睨みつけた。その冷ややかな眼差しを向けられて、静香も美智も、ただ事ではないとようやく息を呑む。

     窓の外の赤い雪。階段に現れた黒い壁。いよいよ事態が尋常ではないらしいという空気が、その場に流れ始めていた。

    「早く皆に伝えた方が良いな。美智、エレベーターホールに、出社してる奴ら全員集めてくれ」
    「は、はい……!」

     藤牧さんの指示が飛ぶや否や、美智は顔を強張らせたまま、皆を集めるために足音を荒げながら駆けていった。静香もすぐ後に続き、手近なデスクにいる社員へと声をかけに走る。

     心臓が早鐘を打っているのが、自分でも分かった。

     最後に松本社長が到着したところで、エレベーターホールに九人全員が集合した。藤牧さんは、静香たちに説明したのと同じ話を、もう一度全員に向けて繰り返す。先ほどよりは、いくらか落ち着きを取り戻したように見えたけれど、やはりその口調は、どこか必死さに満ちていた。

    「うん、全く反応ないね」

     エレベーター横のボタンを連打しながら、桜木さんが呟いた。それを見て、藤牧さんが相槌を打つ。

    「業者には連絡が付かないのか?」
    「電話も、繋がらないんすよ」

     松本社長が言うと、藤牧さんは、お手上げだと言わんばかりに肩を竦めて答え、自分のスマホの画面を見せた。

    「それより、階段の話の方が信じられない。そっちを見に行こう」

     町田さんが皆に提案すると、ざわめきを残したまま、全員が吸い寄せられるように階段の方へと向かった。不揃いの重苦しい足音が、異様に静まり返ったエレベーターホールに、不気味な具合で反響する。

     張り詰めた緊迫感が、じわじわと膨れ上がり始めた。


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    #0 「苦難の会社員」 あらすじ・プロローグ
    #1 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #2 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #3 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #4 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #5 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #6 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
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    #12 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #13 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #14 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #15 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
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    #17 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #18 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
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    #23 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #24 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #25 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #26 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #27 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #28 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #29 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #30 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #31 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #32 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #33 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #34 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #35 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #36 「苦難の会社員」 エピローグ

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