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#35 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ

    #35 第三章 苦難のしもべ


     青葉には、静香が言った言葉の意味が、わからなかった。

     ──あなたは誰も殺してなんかない。だから、自分を責めないで

     そんなはずは、なかった。

     藤牧さんを刺した。施設に、火をつけた。目の前で、燃え盛る建物を確かに見届けた。それなのに、誰も殺していないなんて、そう考えるのには無理があった。

    「静香……何を、言ってるの」

     自分の声が、ひどく遠くで聞こえた。

    「私、藤牧さんを刺したんだよ。施設に、火を……」

     言葉が、途中で崩れ落ちる。青葉は、自分の両手を見下ろした。震えの止まらない、人殺しの手。なのに静香は、その手を怖がるでもなく、静かに青葉の隣に寄り添った。冷たい床の上、肩が触れるほどの距離に。

    「藤牧さんはね」

     静香は、ゆっくりと口を開いた。

    「青葉が刺した後、まだ、生きてたの」

     息が、止まった。

    「え……」
    「きっと、浅かったんだよ、あの傷。致命傷じゃなかった。でも、それを見つけた私と山﨑さんは、人を呼ばなかった」

     青葉は、ゆっくりと顔を上げた。

    「……どうして」

     問いは、掠れた息にしかならなかった。静香は、微かに笑った。

    「青葉を、犯罪者にしたくなかったから。山﨑さんは、私たちのことを妹のように思ってくれてた。自分が守れなかった、守るべきだったって、ずっと後悔してた」

     やめて、と言いたかった。なのに喉が凍りついて、声が出ない。

    「山﨑さんが、藤牧さんを刺したの。助からないように」

     静香の言葉が、容赦なく続いていく。

    「施設の火も、同じだよ。私たちが、火をつけた。バーベキューの炭を、あちこちに投げ入れた。青葉の火なんて、最初からどこにもなかったことにするために。煙で倒れてた人たちのことも、山﨑さんが一人ずつ、刺して回った。……青葉の火で死んだ人が、一人もいないように」

     炎の轟音の隙間で揺れていた、二人の小さな声の気配。あれは、そういう意味だったのか、と青葉は気づいた。私が泣き崩れていたあの時間、炎の中で、二人は──。

    「やめて」

     青葉は、両手で耳を塞いだ。

    「やめて、やめてよ、静香……そんなの……そんなの……!」

     手のひらの内側で、自分の心臓の音だけが暴れている。違う。そんな話は聞きたくなかった。私が殺した。私が燃やした。罰を受けるべきなのは、自分なのに。なのに静香は、山﨑さんは、その罪ごと、青葉から奪いとった。

    「そんなの……勝手だよ……」

     涙が、止まらなかった。滲んだ視界の中、静香の輪郭が滲んで揺れている。

     静香の腕が、青葉を抱き寄せた。

    「青葉はさ」

     囁くような声だった。

    「私のヒーローなの」

     静香は青葉の背中を優しくあやすように、ゆっくりと、何度も、愛おしそうに撫でた。

    「私、青葉と一緒にいる時間が、本当に、大好きだった。青葉には、ずっと貰ってばかりだったから。だから──」

     静香の声が、そこで初めて、震えた。

    「最後くらい、私が青葉のヒーローになりたかったの」

     張り詰めていた何かが、完全に、決壊した。

     静香の胸に顔を押しつけて、声を上げて泣いた。ごめんなさい。行かないで。置いていかないで。すべての言葉が涙に溶けて、形を失って、ただの慟哭になって、溢れ出ていく。

    「だから、私と山﨑さんの分まで。ちゃんと、生きて」

     その言葉を静香から受け取った瞬間、閉ざされた世界は、突然、終わりを迎えた。

     顔を上げると、静香の体が、消えかけていた。

    「静香……待って!」

     行かないで。まだ、何も返せてない。ごめんなさいも、ありがとうも、ちゃんと言えてない。私はまだ、あなたに──。

     喉が張り裂けそうになる青葉の頬に、消えかけの手のひらが、そっと優しく触れる。もう半分透けてしまったその顔は、それでも、笑っていた。世界で一番大好きな、静香の笑顔。

     最後に、唇が動いた。

    (──会えてよかった)

    「私も……私も……!」

     青葉は頷いた。涙で何も見えないまま、何度も、何度も、首を縦に振った。

     世界が涙で完全に埋め尽くされたその瞬間、透明な光が、視界のすべてを白く塗りつぶした。


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    #0 「苦難の会社員」あらすじ・プロローグ
    #1 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
    #2 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
    #3 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
    #4 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
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    #26 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
    #27 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
    #28 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
    #29 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
    #30 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
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    #34 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
    #35 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
    #36 「苦難の会社員」エピローグ

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