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#34 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ

    #34 第三章 苦難のしもべ


    「藤牧くん、部屋で寝ちゃってました。だいぶ酔ってたみたいで」

     藤牧さんのいる部屋の扉を閉めて、バーベキューの輪に戻った山﨑さんは、紙コップを片手に、驚くほど自然にそう言ってのけた。肉の焼ける匂い。鈴木副社長の甲高い笑い声。何もかもが、さっきまでと同じ温度で続いていく。

     静香は、笑うことができなかった。ついさっき、この目で見たもの。山﨑さんの両手を染めていた色。それを洗い流した水の冷たさが、まだ自分の指先にまで残っている気がした。

     美智は、それからも、一度も姿を見せなかった。当然だ、と思う。今の美智が、人の声のする場所に、灯りの届く場所に、出て来られるはずがない。

    「……解散してからだね」

     山﨑さんが、火を見つめたまま、囁くようにそう言った。静香は小さく頷いた。皆が寝静まってから、二人で探しに行く。暗闇のどこかで一人で震えているはずの美智を、見つけて、抱きしめてあげたかった。

     やがて宴はほどけ、人影がひとつ、またひとつと、建物へ吸い込まれていった。その後すぐに二人は外で落ち合い、そっと闇の中へと歩き出した。

     建物の裏手。物置の陰。バスの停まった駐車場。川辺へ下りる細い道。スマホの灯りを頼りに、囁くような声で名前を呼びながら、二人は暗闇を掻き分けていく。

    「美智ちゃん……」
    「美智……」

     声は、闇に吸われていくばかりだった。川のせせらぎだけが、変わらない調子で応え続けている。

     どれほど探しただろうか。川辺の道を折り返そうとした、その時だった。

     背後の闇が、揺れたように見えた。振り返ると、木々の輪郭の向こうで、赤色の炎が、生き物のように背を伸ばしている。

    「……火」

     静香の口から出た声が、掠れた。

     二人は、すぐに駆け出した。息が切れ、足がもつれ、それでも走った。木立を抜けた瞬間、視界いっぱいに、燃え上がる研修施設が飛び込んでくる。玄関の脇、古い木の壁が、もう腰の高さまで、炎に舐められていた。

     誰がやったのか、考えるまでもなかった。追い詰められて、追い詰められて、壊されてしまった美智の心が、最後に選んでしまったことなのだと、静香の心は受け入れた。

     それを受け入れてしまった瞬間、静香の中で、何かがすとんと据わった音がした。恐怖でも、絶望でもない。静かな、決意だった。

     美智の火で、あってはいけない。この夜に起きるすべてのことが、美智の罪になるのは嫌だ。

     静香は、まだ火の残るバーベキューの炭壺へと走った。トングを掴み、赤く燻る炭の塊を挟み上げる。振り返ると、山﨑さんが、もう隣にいた。何も言わなかった。何も聞かなかった。ただ同じようにトングを取り、同じように炭を挟んだ。

     二人は、燃え始めた建物に向かって、それを投げ入れた。一つ。二つ。窓の割れた隙間へ。乾いた壁の根元へ。まだ火の回っていない側にも、とにかく自分たちの手で、火を燃え広げた。

    「……静香ちゃん」

     山﨑さんが、まだ終わっていないという顔をしている。これは、私たちが点けた火だ。美智の火なんて、最初からどこにもなかった。放火の犠牲者が一人もいなければ、美智の火は、誰も殺していない。けど、まだ完璧じゃない。

    「私も、行きます」

     自分の声が、他人のもののように落ち着いているのが、不思議だった。山﨑さんは一瞬だけ泣きそうな顔をしてから、頷いた。

     二人は、炎を纏い始めた玄関へと駆け込んだ。熱気が、皮膚を殴りつけてくる。煙が、目と喉を焼く。それでも廊下の奥は、まだ道の形を保っていた。その時だった。

    「戻って、お願い、戻って……!」

     外から、声がした。美智の声だった。

    「美智……!」

     静香は、思わず叫び返していた。よかった、と思った。こんな時なのに、心の底から、よかった、と。生きている。外にいる。あの子は、この火の中にいない。

     直後、頭上で梁が悲鳴を上げた。

    「離れて!」

     山﨑さんの叫びと、轟音。視界が火の粉で真っ白に爆ぜ、振り返った時には、唯一の出入り口が、燃え崩れた木材の山に塞がれていた。

     瓦礫の向こうから、美智の声がする。

    「来ないで!」

     静香は、これまで出したこともない鋭さで叫んだ。それから、煙に千切られながら、できる限り静かな声で続けた。

    「聞いて。……美智、来ないで。お願いだから」

     瓦礫の向こうで、美智が何かを叫んでいる。私なの、と。火をつけたのは私なの、と。全部私なの、と。喉が裂けるようなその告白に、静香は、炎の轟音の下で、そっと首を振った。

     違うよ、美智。火をつけたのは、私たち。あなたの火は、誰のことも、傷つけていない。

    「──逃げて」

     山﨑さんと、声が重なった。それが、外へ届けられる最後の言葉だった。二人は瓦礫に背を向け、煙の奥へと歩き出した。それからのことを、静香は、順番にしか覚えていない。

     煙を吸って床に倒れている、裏切り者の社員たち。その一人一人の胸に、山﨑さんが、ナイフを突き立てていく。

    「ごめんなさい」

     一人終えるたびに、山﨑さんは小さくそう言った。静香は、何も言わずに、黙って隣で見届けた。

     美智の火は、誰も殺さなかった。

     二人は、崩れかけたカンファレンスルームまで戻り、並んで床に座り込んだ。もう、どこへ行く必要もなかった。熱と煙が、四方からゆっくりと距離を詰めてくる。

    「……これで、美智ちゃんは、誰も殺してない」
    「はい。……誰も」

     静香は、山﨑さんの手を握った。灼けて、傷だらけで、それでも温かい手だった。天井の隙間から、燃え尽きた灰と火の粉が混ざって、視界に舞い込んでくる。赤く光る無数の粒が、ゆらゆらと、二人の上に降り続けている。

     薄れていく意識の中で、静香は思い出していた。あの夜の、湘南の海。瞼の裏に広がる青い光。波が砕けるたびに灯る、奇跡みたいな光。隣で飛び跳ねていた、真っ白な夏服の青葉。貰ってばかりだった優しさと、勇気。その全部への、遅すぎるお返し。

     生きて。

     遠くで、声が聞こえる気がする。静香。山﨑さん。静香。大好きな声。静香は、微笑んだまま、目を閉じた。

    「山﨑さん、お願いします」
    「私も、すぐに行く」

     降り注ぐ赤い雪が、二人の命の終わりを見届けた。


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    #0 「苦難の会社員」 あらすじ・プロローグ
    #1 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #2 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #3 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #4 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
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    #11 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #12 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #13 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #14 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #15 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
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    #18 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
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    #26 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #27 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #28 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #29 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #30 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #31 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
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    #33 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #34 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #35 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #36 「苦難の会社員」 エピローグ

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