
#18 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#18 第二章 罪の記憶
鈴木京香は、皆が寝静まったオフィスを、息を潜めるようにしてゆっくりと歩いていた。
二十階のフロアには、窓から差し込む赤い光がブラインドの隙間を抜けて、幾筋もの縞模様を描き出している。その光と影の境界線を、鈴木は音もなく、どこか楽しげに跨いでいた。暗闇の奥にいる『その人』に、会いに行くために──。
鈴木は、とっくに思い出していたのだ。記憶の呼び水を向けられるまでもなく、序盤から、全て。手のひらの上で転がすように、冷静に状況を理解していた。あのプロジェクトの結末も、自分たちの犯したとされる罪も、とっくのとうに知っていた。
もちろん『その人』が、誰であるのかということも。
だから、最初にモニター画面に映し出された文字を見た時、今さら何を言っているのだろう、と思った。だって鈴木は、出社してからすぐ、集まってあの赤い空を眺めていた時に、全てを思い出していたのだから。
多分、早くに記憶を取り戻したのは、自分だけだった。
それは、罪悪感というものが一切なかったからだろう、と思う。鈴木が、他の皆と違う点は明らかにそこだった。究極の楽観主義で、流れに身を任せる特性。過去のあの出来事についても、そうなる運命だったのだ、としか思わない。
けれど鈴木は、他の皆には明かさなかった。『その人』が真実を知った時の反応を、独り占めしたかったから。それに、自分だけが思い出しているという、この上なく滑稽な状況を、もう少しだけ楽しんでいたかった。
そして、その時が来たら、どうしても尋ねてみたかった。追い詰められた『その人』が、最後にあの結末を選ばざるを得なかった、その胸中。どこまでも楽観的な自分には永久に分かり得ない、絶望に囚われた悲観者のロジックを。
鈴木は、階段室のドアの前で立ち止まる。
どういうわけか、本当の『その人』がいるのは、突然道を塞いだあの不気味な黒い壁の先であると、鈴木は直感的に確信していた。そして、記憶を取り戻した今の自分は、あの壁の先へと進む切符をすでに手にしているはずだ、とも思った。
鈴木は、階段室のドアノブに手をかけて、ゆっくりと扉を開ける。
すると、古びた木材の独特の香りが、突然、鈴木の鼻をくすぐった。どういうわけか、開いた扉の先がそのまま、あのオフサイトの研修施設の隅にある一室へと繋がっている。
「ねえ、何でそんなに煽ってくるの?」
目の前で、当時の自分が『その人』を呼び出し、詰め寄っているのが目に入った。隣には、松本が座っている。そして、今の鈴木は、それを俯瞰して見つめる形になっている。
ヘラヘラと笑顔で、けれど高圧的に詰め寄る様子が、まるで心のない怪物のように見えて、我ながら酷く滑稽で恐ろしい。
「君がいくらリスクを並べ立てたところで、もう決まったことだ。今さら梯子を外すような真似は許さないよ」
松本が、隣から追い打ちをかけるようにして、事務的な口調で『その人』を突き放す。
「あー。もういいや。あなた、このプロジェクトから外れてくれる? 仕事楽になって良いねー。あ、もちろん今夜のバーベキューも来なくていい。空気悪くなっちゃうし。ご飯、適当に手配するから部屋でじっとしてて」
鈴木が放った言葉は、怒鳴りつけるようなものではなかった。ただ、異物を淡々と排除する宣告。それを、目の前の鈴木は、やはり軽快なトーンで楽しげに口にしている。自分を見て、血の通った人間には見えない。
『その人』は、パイプ椅子に深く腰掛けたまま、机の下で強く握りしめた自分の拳を、じっと見つめていた。
実は他のメンバーには、ここに着く前に、空気感を察した松本の方でとっくに手を回してあった。
時間を見計らって個別に呼び出し、昇格をちらつかせ、多忙な部署は人員補填を約束し、まとまったボーナスを口約束する。それぞれ、適当に都合のいい餌を撒いて不満を買い叩き、プロジェクトへの協力を煽る。
特にどちらとも取れない中立な子もいたけれど、不満を匂わせていたほとんどのメンバーは、それだけのことで簡単に、こちらの神輿を担いでくれることになった。
会社員は、結局、利己的なのだ。人生に余裕がなく、常に焦燥に駆られている悲観者ほど、いざという時の手のひら返しが早い。経営者に楯突く『その人』のために、自分が得られるはずの利益を捨てようとするものは、ほとんどいなかった。
そして、それでも釣れない反乱分子は、綺麗にプロジェクトから排除する。いつも通り、結局はすべて上手くいく。そう信じて疑わず、鈴木は今回も飄々と必要な手際を整え、プロジェクトを強引に進めていった。
けれどあの日、予想外のことが起こった。
鈴木の記憶に残っているのは、あまりにも唐突に訪れた、あの凄惨な結末だけだ。命が終わりを迎えた、最後の景色。そこには、鈴木の与り知らない空白の時間がある。あの夜『その人』が何を思考し、なぜ、あの終着点へと至ったのか。
そう回想した瞬間──。
唐突に眠気が押し寄せたように、目の前の景色がぐらりと歪み、気がつくと、鈴木は薄暗い階段室に立っていた。開けた扉のドアノブを握ったまま、小さく息を吐く。
「……あ、戻っちゃった」
顔を上げ、十九階へと下ると、鈴木たちの行く手を阻んでいた黒い壁は、跡形もなく消えていた。まるで初めからそうであったかのように、階段はその先へと、静かに開かれている。
「壁が消えたってことは……通っていいってことだよね?」
鈴木はフッと口元を綻ばせると、立ち止まった踊り場から、ゆっくりと一歩を踏み出す。
トトン、トトン……。トトン、トトン……。
後ろから、誰かが一段ずつこちらへ近づいてくるような、不規則で、どこか引きずるような足音が、不気味に響いてきた。
そこに、いる。
普通の人間の感覚であれば、悲鳴を上げて逃げ出すようなシチュエーションだろう。けれど鈴木は、むしろ待ちきれないと言わんばかりに、後ろを振り向いた。
『その人』と、話がしたい──。
……ドンッ!
驚く間も、なかった。
「は?」
視界が回転し、スローモーションのように流れる景色の中で、『その人』が見下すように、鈴木を睨みつけている。
感情の抜け落ちた瞳。
ただ邪魔な異物を排除しただけと言わんばかりの、空っぽで、平坦な拒絶の眼差し。自分を鏡で見ているような錯覚が、落ちていく鈴木を襲う。
『その人』が抱える絶望の胸中を尋ねられる時間は、一秒すら与えられることはなかった。
鈴木の身体は、一切の光が届かない闇の底へと、ただ速度を上げて深く、深く、沈んでいく。
やがて静まり返った階段室の、その奥底から、鈴木の消え入りそうな呟きが細く、細く、尾を引いた。
「ごめん……なさい……」
それを合図にして、『その人』は再び足音を鳴らした。
トトン、トトン……。トトン、トトン……。
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#0 「苦難の会社員」あらすじ・プロローグ
#1 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#2 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#3 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#4 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#5 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#6 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#7 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#8 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#9 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#10 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#11 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#12 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#13 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#14 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#15 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
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#25 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#26 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#27 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#28 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#29 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#30 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#31 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#32 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#33 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#34 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#35 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#36 「苦難の会社員」エピローグ