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#17 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶

    #17 第二章 罪の記憶


    「じゃあ、また明日会おう」

     軽い挨拶を交わして女性陣と別れた後、十九階のショールームに入った松本は、いそいそと眠りの支度を始めていた。

    「よし、上々だな」

     体裁こそ悪いものの、ディスプレイ用のクッションや商談用のソファをかき集めたおかげで、身体を横たえるスペースがすんなりと出来上がる。本音を言えば上の社長室で眠りたかったが、二十階は女性専用のフロアとなってしまったから、仕方がなかった。

    「電気、消しますよ?」

     藤牧くんの一言を合図にして、ショールームを照らしていた無機質な蛍光灯の明かりが、一瞬の後にぷつりと消えた。

     窓の外は相変わらず、時間という概念を失った朝の様相のままで、松本たちの困惑を嘲笑うかのようにそこに佇んでいる。ブラインドを完全に下ろしたところで、隙間から射し込む赤色の不穏な光だけは、隠しようもなかった。

     松本は、疲労感に身を任せるように静かに目を閉じる。

     この会社の代表取締役として、努めて冷静に振る舞おうとはしていたものの、胸の内はずっと、底知れない焦燥感に支配されていた。皆から見ても、冷静さとは程遠い、取り乱した様態を晒してしまっていたに違いない。

     記憶の欠落、物理的な異常、そしてあの不穏なモニターの警告。考えれば考えるほど、泥沼に足を踏み入れるような底なしの恐怖が襲ってきて止まらない。

    (何が起きているというんだ……)

     思考を放棄するように、ふうと息を吐き出し、深く、大きく息を吸い込む。それをしばらく繰り返していると、意識の輪郭が、抗えない強さでゆっくりと融けていくのを感じた。

     完全に意識が暗転し始め、眠りの淵へと沈んでいく感覚の中で、松本は、かすかに聞き覚えのある音を聞く。それは、秋の空気に包まれた山奥の、どこまでも澄んだせせらぎの音だった。近くを絶え間なく流れる、清流の音。

     あの日──。

     松本たちは、肝煎りのプロジェクトに関わる九人のメンバー全員で、山奥にある研修施設を訪れていた。ロゴの刷新とブランドキャラクターの開発を主軸に据えたリブランディング計画。その集中討議のためのオフサイトだった。

     何か革新的なアイデアを創出しようとする際、企業がよく取り入れる定番の手法に、オフサイトがある。日常のオフィスからあえて環境を切り離し、まったく異なる空気の中で議論を交わす。松本たちの会社にとっては、初めての試みだった。

    「ねえ! 川、めっちゃ綺麗だよ!」

     貸切バスから一番乗りで飛び出した鈴木が、到着するなり嬉々として声を弾ませている。

    「あ、本当ですね」

     町田くんが、起伏のない声でそれに静かに同意する。

     長時間の移動に疲れたのか、あるいはこれから始まる会議のことが頭をよぎるのか。周りのメンバーを見渡しても、鈴木の無邪気なハイテンションについていく者は、どこにも見当たらなかった。

     今夜は、全員でここに一泊する予定だ。正午から集中的にディスカッションを行い、夜は親睦を深めるためのバーベキュー。そして翌朝から再び会議を再開し、夕方までに本社オフィスに戻って解散する、という算段だった。

    「とりあえずチェックインをしてから、会議の準備をしよう」

     松本が声をかけると、メンバーたちはそれぞれ足元に置いていたビジネスリュックやキャリーケースを持ち上げる。

     訪れた施設は、周囲の自然に調和するように建てられた、木造の建築だった。細かい部分に目をやると、かなり年季が入っているのが分かる。足を踏み入れた瞬間、都会にはない古びた木材の独特の香りが、心地よく鼻をくすぐった。外には、どこか懐かしい日本の田舎の風景が広がっており、時期になると、蛍もよく見えるらしかった。

     松本が全員を代表してチェックインを終えると、各自、割り当てられた部屋に荷物を置いた後、すぐに二階にあるカンファレンスルームへと集合した。

    「それでは、早速始めようか」

     強引に幕を開けるように話を始める松本は今、奇妙な二重の意識に囚われている。目の前の光景に身を置きながらも、これは自分が過去の記憶をなぞっている夢なのだと、どこか冷静に自覚する意識。巻き戻されたビデオテープの中を、未来の自分が俯瞰で見つめているような、妙な感覚。

     会議を仕切りながら、松本は、この場にある冷ややかな構図を再認識していた。

     松本と鈴木を除く本社の従業員のほとんどが、このリブランディング計画に乗り気ではなかった。だからこそ松本は、中心メンバーを集めたこのオフサイトを設けたのだ。環境を変え、寝食を共にするという大義名分のもとで彼らを取り込み、なんとか首を縦に振らせる。それが、松本と鈴木の裏の目論見だった。そして、その仕込みを松本は抜かりなく行なっていた。

    (そうだ、この会議は、最初から最悪の空気だった──)

     その場を俯瞰する松本の意識は、キリキリと胸が締め付けられるような苦しさに襲われる。全てを、鮮明に思い出せるからだ。先ほどまで居座っていた記憶の靄が、今や跡形もなく晴れていた。

     このプロジェクトが孕んでいた問題と、松本らが強いていた理不尽なトップダウンの重圧。現場を無視した二人の独走への不満。イノベーションという言葉に盲目になり、反対するメンバーの声を、ただの出鱈目な意見として切り捨てた自分たちの愚かさ、傲慢さ。

     あの時は罪悪感など、微塵も感じていなかった。

     自分が創業した会社を、自分の思う通りに動かして何が悪いのか、と思っていた。会社の成長はすべて、自分自身の才覚がもたらした成果なのだと、ただ信じ、誇りたかっただけなのかもしれない。

     その歪んだ考えが、松本の目を曇らせていた。

     声を荒げ、何を言われても、自らの判断をどこまでも押し通し続けた。松本の突き詰めた社長然は、ただの独裁的なエゴに過ぎなかった。

     それは、プロジェクトを通じて、段々とエスカレートしていった。このオフサイトの日は始まりではなく佳境で、引き返せない一線を越える、決定的な臨界点だった。

     俯瞰する松本は、この傲慢な男が自分であるという事実に、視界を覆い隠してしまいたくなる。

    (もう、やめてくれ──)

     再生される記憶を直視することに耐えかね、意識の中で魂を丸めるようにして、目と耳を強く塞ぎ込んだ。この独善的な歩みの先に、誰が犠牲になったのか。今なら、すべてが繋がってしまう。

     あの日、あの場所で、何が起きたのか。

     松本は『その人』から、すべてを奪い取ったのだ。自分の地位を免罪符にして、声を奪い、余裕を奪い、仲間を奪い、最終的には、素晴らしかった人格さえも──。

     心の中で誰よりも会社の行く末を案じ、だからこそ、最後まで声を上げようとした人だった。

     『その人』が、最後に選ばざるを得なかったあの結末を思い出すと、あまりにも痛ましく、恐ろしく、胸が張り裂けそうになる。

    (──思い出しました?)

     『その人』の声が脳裏でそう囁いた瞬間、底知れない後悔の念が、松本の意識を暗い深淵の底へと引きずり下ろしていった。不快な耳鳴りが、糸を断ち切るように激しく鳴り響いたかと思うと、やがてそれは唐突にぷつりと途絶え、しんと鳴り止んだ。

     松本が目を覚ましたとき、そこは男性陣が眠っていたはずの、十九階のショールームではなかった。

     静まり返った空間で、ひやりとした空気が肌を刺す。誰もいない静寂の階段室。立ち尽くす松本の目の前には、ただ、圧倒的な質量を持った黒い壁が、不気味な威容で居座っていた。

     けれど、不思議とその状況に混乱はしなかった。むしろ、初めからこうなることが分かっていたかのように、松本は落ち着きを放っている。やがて松本は、操り人形のようにゆっくりと、その黒い壁に吸い寄せられていった。

     ここで何をしなければならないのか、知っている。これは義務であり、罰なのだ。自らの傲慢さが犯した罪。その罪への、遅すぎる落とし前。黒い壁の前にまっすぐに立ち、松本は深く、深く、頭を下げた。

    「……すまなかった」

     かすれた声が、無機質な階段室に小さく響き渡り、静寂にこだまして吸い込まれていく。

    「本当に……本当に、申し訳なかった……」

     誰に届くとも知れない謝罪。けれど、松本は壁の向こうに『その人』の気配を、確かに感じ取っていた。

     時間の感覚はとうに失われていたが、ただ強迫観念に突き動かされるように、目の前の黒い壁に向かって幾度も平伏し、許しを乞うように謝り続けた。

     やがて、何かが始まるという確かな予感に、松本は弾かれたように顔を上げる。祈るようにして、じっと息を潜めた。

     その時。

     ズル……ズル……ズル。

     聞こえてきた不気味な音が、ようやく張り詰めていた静寂を破った。目の前にある黒い壁の中央部分が生き物のようにうねったかと思うと、ずるずると音を立てて融解していく。

     松本が呆然と見つめる中、黒い壁の中央には、人が一人通れるほどの穴が、ぽっかりと穿たれていた。その向こう側には薄暗い階段が延びているだけで、先ほど感じた『その人』の気配は、嘘のように消えている。もう、誰の気配も感じなかった。

     穴の奥を覗き込んだ松本の背筋に、ぞっとするような悪寒が走り抜ける。この階段を下りた先には、何があるのか。自らの罪に見合った、筆舌に尽くしがたい報いが待っているのかもしれない。

     けれど、不思議と、引き返そうとは思わなかった。

     まるで、目に見えない無数の手にゆっくりと引き摺り込まれるかのように、松本はその穴の向こうへと静かに歩みを進める。

     闇に染まりゆく視界の向こうに、『その人』の顔を見た気がした。松本はその幻影に向かって、そっと手を伸ばす。

     そのまま、ただ全てを受け入れるように、光の届かない深淵の底へと、自らの足でゆっくりと進んでいく。

     閉ざされた空間で凍りついていた松本の時間は、ようやく解き放たれ、誰に告げることもなく、静かに終わりを迎えた。


    <次の話>


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    #0 「苦難の会社員」 あらすじ・プロローグ
    #1 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #2 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #3 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #4 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #5 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
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    #26 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #27 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #28 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #29 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #30 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #31 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #32 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #33 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #34 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #35 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #36 「苦難の会社員」 エピローグ

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