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#10 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空

    #10 第一章 午前九時の空


     静まり返った執務室の中で、ひとり自席のデスクに蹲り、美智は思考を巡らせていた。

     ──九人の中に、存在しないはずの社員が紛れている
     ──その人が誰なのかを思い出すこと。その人に対して自分が犯した罪を思い出すこと。それが、この場を出るための唯一の方法である

     美智は、最初の一文を読んだ時、社外の人間がこの中に紛れている程度の、楽観的な解釈をしようとした。けれど、罪に言及された二文目を見て、この中の誰かがすでに死んでいるのかもしれないという説を、否定できなくなった。いつも論理的で聡明な町田さんまでもがその見解を支持している以上、これが残酷な正解なのだと、静かに受け入れることにした。

     藤牧先輩は、どう考えているのだろう。相談してみたかったけれど、喫煙所に一服しに行ったようで、執務室には姿が見えない。ふと見渡すと、すぐ近くで、静香が自席のデスクに座っているのが見えた。それでも、不思議と互いに目を合わせようとはしなかった。

     幽霊は、自分なのかもしれないし、そうではないのかもしれない。けれど、モニターに映し出された内容が本当なのだとすれば、それは被害者なのか、加害者なのか、というだけの違いだ。どちらに転んだところで、自分が何らかの罪に関わっている事実に、変わりはない。

    (……帰りたい)

     美智は、膝の上でスカートの生地をきつく握りしめ、溢れそうになる涙をこらえるように俯いた。

     ついさっき注いだばかりのコーヒーから、いつの間にか湯気が完全に消えている。それを見つめながら、現実感を失った頭で、時間は止まっているのにコーヒーは冷めるんだ、と思った。お腹は空くのだろうか。喉は乾くのだろうか。

     どうして、この九人なのだろう。その疑問が不意に浮かんだ瞬間に、九人の顔ぶれを、頭の中で順番に並べてみた。ここに集められている人たちに、何か共通点はなかっただろうか。

     静香とは同期だから、入社した日が同じ。藤牧先輩とは、美智が入社した時から営業部で、部署が同じ。それ以外の人とは、同じ会社に勤めていること以上の分かりやすい共通項は、いくら考えても見当たらない。強いて言うなら、山﨑さん。いつからだったか、彼女のことは、雰囲気的な部分で好印象を抱いている。

     記憶を辿り始めてしばらくした時、ふと何か、このメンバーで体制を組んだ業務か、プロジェクトのようなものがあった気がした。けれど、記憶に靄がかかっているように、その詳細を思い出すことができない。

     答えのない迷路で、何かが繋がりそうなもどかしさに胸を脈打たせていると、藤牧先輩がようやく喫煙所から戻ってきた。

    「先輩、お疲れ様です……これから私たち、どうすれば……?」

     絞り出すような美智の問いかけが、静まり返った執務室にひどく、弱々しく響き渡った。

    「俺にも分からねえ。けど、町田にはなんか仮説があるっぽかった。頭を整理したいとか何とか言ってたから、あとで話を聞いてみようと思う」

     藤牧先輩の言葉に、美智は縋るような思いで小さく頷いた。町田さんなら、この底なしの泥沼から抜け出す糸口を見つけてくれるかもしれない。そう思うことくらいしか、今は拠り所がなかった。

    「顔色悪いけど、大丈夫か? あんま心配しすぎるなよ」

     気遣うような先輩の言葉が、張り詰めていた美智の心にじわりと染み込んでいく。

    「はい……。私、あれから色々考えていて、何かこの九人で一緒に進めていた業務か、プロジェクトみたいなものがあった気がしたんです……。先輩は、何か覚えてないですか……?」

     美智は、喉の震えを押さえつけながら、訥々とした調子で、先ほど掴みかけた記憶の手がかりについて、先輩に尋ねてみた。

    「……パッとは、浮かばねえな。記憶に干渉されてるって説もあるから、何とも言えないけど」

     返ってきた先輩の言葉とともに、掴みかけた記憶の糸は、再び、深い霧の向こうへと完全に引き戻されてしまった。

    「俺は食べ物とか飲み物のストック見てくるから、今のうちにゆっくり休みな」

     そう言うと、先輩は引き攣ったような笑みを無理やりその顔に貼り付けて、美智の返事を待たずに早足で歩き去ってしまった。

     きっと先輩の胸の奥にも、自分と同じだけの暗い恐怖が渦巻いているのだと思った。何か行動していなければ、今にも押し潰されてしまうからこそ、年上の上司として美智を安心させるために、必死に虚勢を張ってくれているのかもしれない。

     本当に、どこまでも頼りになる上司だ。だからこそ、被害者でも、加害者でもあってほしくなかった。それに、そんなことはあるはずがないとも思えた。

     もし、この時空にいつか終わりがあるのなら、その時はどうか、無事に先輩と一緒に、ここを出られますように。

     そう強く、縋るように祈らずにはいられなかった。


    <次の話>


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    #0 「苦難の会社員」 あらすじ・プロローグ
    #1 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #2 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #3 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
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    #12 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #13 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #14 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
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    #18 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
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    #25 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #26 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #27 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #28 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #29 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #30 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #31 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #32 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #33 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #34 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #35 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #36 「苦難の会社員」 エピローグ

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