
#30 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#30 第三章 苦難のしもべ
「ブランドのロゴを変えて、公式キャラクターを開発する」
青天の霹靂とも言える松本社長の号令とともに、このリブランディングプロジェクトは幕を開けた。
皆に事前の相談など一切なく、経営層による決定事項として、静香たち九人のコアメンバーに、突然計画が下ろされたのだ。その時点で、およそ現実的とは言えない過密なスケジュールが引かれており、準備期間は一年も用意されていなかった。
「ロゴとキャラクターのデザインは俺と鈴木で進めるから、皆はそれ以外の必要な準備と施策を洗い出してくれ」
静香は、その松本社長の一言に、あまりに現場を軽視している、と思った。そもそも、デザインが決まらないと動かせない準備も、沢山あるはずだ。そういうことを、この人たちは分かっているのだろうか。ちらりと横を向くと、他のコアメンバーたちも一様に困惑の表情を浮かべ、視線を泳がせているのが分かった。
ロゴやキャラクターは、ブランドの顔のような存在だ。その改革が意味するところは、単なるビジュアルの変更に留まらない。静香は入社してまだ三年と経験は浅かったけれど、それが意味するところくらいは分かっていた。いくら二人が創業したブランドであるとはいえ、こんな雑なトップダウンの仕方があって良いのだろうか。
「社長、このスケジュール、かなり厳しいですよ」
藤牧さんが、投影された資料をじっと見つめながら、眉間に深い皺を刻み、低く絞り出すような声で進言した。
「それを何とかするのが、皆の仕事じゃん?」
横からすかさず鈴木副社長が小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべ、藤牧さんの懸念を一言で切り捨てる。
「利益計算とか、ちゃんと出来てるんですか? サイトの方もデザイン変えようと思ったら、結構外注費かかっちゃいますけど」
町田さんは、鈴木副社長の回答など聞こえていないといった様子で、淡々と言い放つ。
「まだ詰められていない部分も多い。取り敢えず、急ぎ見積もりを取ってくれ」
それに、松本社長が、どこか歯切れの悪さを滲ませて応じた。
静香は、その押し問答を不安げに眺めながら、経営陣二人の無謀な見切り発進に、強い危惧を覚えた。経理部に身を置く静香は、直近の利益がどれほど逼迫しているか、そして手元のキャッシュがどれだけ目減りしているかという生々しい現実を、誰よりも正確にイメージできたからだ。
けれど、会議室を支配するそのヒリついた空気感を前に、一介の経理部員にすぎない自分が口を挟めるはずもなく、小さく息を潜めていることしかできなかった。
「……ありえない!」
会議が終わった後、藤牧さんと共に営業部を代表して出席していた美智は、珍しく怒っていた。誰よりもブランドの世界観を愛し、その魅力を伝えたくてこの会社の門を叩いた彼女だ。それなのに、どこかで見たようなトレンドと商業主義的な目論見だけでキャラクター開発をねじ込もうとする上層部のやり方に、強い悔しさが込み上げているようだった。
「美智、落ち着いて」
静香は、あえていつも通りの淡々としたトーンで、ブレーキをかけるように声をかけた。会議に参加していた先輩たちも「計画通りに進むわけがない」と、どこか呆れ顔で、ため息をつくことすら忘れたように散り散りになっていく。
けれど日が経つにつれて、経営の二人からロゴやキャラクターのデザインが小出しに共有されるたび、上層部だけが異様な熱量で独走しているという不気味なズレが、いよいよ無視できないものになっていた。
その不穏な空気感をさすがに経営陣も察したのか、現場のガス抜きと意識統一を図るという名目で、急遽オフサイトミーティングが企画された。
「ねえ静香。私、オフサイトの場で、ちゃんと経営陣に提言しようと思う」
二人でランチに出かけていた最中、美智は声を潜めながらも、まっすぐな視線でそう切り出してきた。
「大丈夫なの? 先輩たちに相談した方が良いんじゃない?」
「藤牧先輩なら、きっと協力してくれる。忙しそうだからあんまり時間は取ってもらえないだろうけど、それでも頼りになる」
静香は手元のカップをそっと置き、美智の真っ直ぐな瞳を見つめ返した。
「もし本当にやるんだったら、資料作り、私にも手伝わせて」
「いいの?」
「当たり前。美智が一人で無茶して玉砕するのなんて、見てられないから。とことん付き合う」
美智の顔が、パッと輝いた。
「最初の一週間で提案の材料を揃えて、残りの一週間で一気に資料に落とし込もう」
どちらからともなく持ち上がったその提案に、二人は力強く頷き合った。
静香はまず情報を集めようと、懸念点を中心に、コアメンバーの先輩方にヒヤリングをして回った。すると、普段は経営陣を前に諦念を浮かべ、会議で押し黙っている先輩たちも、少しずつ本音を漏らし始めた。
商品部の桜木さんはデザインそのもののクオリティにノーを突きつけ、デジタル部の町田さんは、WEBサイトの改修費用が予算を圧迫することを危惧した。マーケティング部の髙野さんに至っては、告知やプロモーションの仕込み期間が皆無に等しい無謀なリリーススケジュールに、呆れ果てていた。
静香はそれらの声を一つひとつ丁寧に書き留め、リストアップしていった。専門的なことで理解できないことも多かったけれど、そこは先輩たちが丁寧に説明してくれた。
情報がようやく集まりきった頃、残業をしている静香と美智に、マーケティング部の山﨑さんが、そっと声をかけてきてくれた。静香と美智がオフサイトに向けて資料を準備していると知り「一緒に経営陣を説得しよう」と、強力な助っ人として加わってくれることになった。
それからは、三人で毎日残業をして、資料作成に向き合った。
残業の無理が祟ったのか、美智の顔はどんどん青白くなっていき、目の下の隈も隠しきれなくなっていった。山﨑さんから見れば静香も似たような惨状だったらしく「このままだと本番前に共倒れしちゃう。今日だけは休戦!」と、ストップがかかった。
その日はパソコンを閉じ、残業を一切禁止にして、三人で夜ご飯を食べに出かけた。互いのボロボロの顔を見合って苦笑しながらも、温かい料理を口に運ぶうちに、すり減っていた心と体に、少しずつ生気が戻っていくのを感じた。
「ねえ、二人はどうしてこの会社に入ったの?」
山﨑さんが、静香と美智に問いかける。
「実は私、入社する前から、このブランドのファンだったんです。初めてお店に行ったとき、ブランドの世界観にすっかり魅了されてしまって」
先に答えたのは、美智だった。
「静香ちゃんは?」
「私ですか? 私は完全に成り行き入社です……。美智に誘われて、受けてみたら通っちゃったっていうか……」
静香はあっさりとそう言って、肩をすくめた。隣の美智をちらりと盗み見る。成り行きで入った会社のために、今これほど泥臭く残業している自分の矛盾が、なんだか少しだけ可笑しかった。
「ずっと私のこと『青葉』って苗字で呼んでたのにね。この会社に入ってからは、周りに合わせて『美智』って呼ぶようになったんです、この子」
美智は目を細め、ちょっとした昔話を披露するように、悪戯っぽく笑った。
「山﨑さんはどうだったんですか? やっぱり美智みたいに、最初からブランドのファンだったんですか?」
照れくさくて話を変えようと、静香は別の質問を繰り出した。すると美智も「あ、私もそれ気になります!」と目を光らせて身を乗り出す。二人の真っ直ぐな視線を浴びた山﨑さんは「私? 私はねぇ……」と、少し懐かしむように、グラスを見つめた。
「美智ちゃんに少し似てるかも。お店に行った時、接客の端々から、社員にめちゃくちゃ愛されてるブランドだっていうのが伝わってきた。まさか、その純粋な愛を人質にとって、経営陣がこんなにふんぞり返ってるとは思わなかったけど……」
そう言って微笑む山﨑さんの姿は、とても格好良かった。
「本当ですよね……。でも……今、こうして三人で同じゴールに向かって頑張るの、なんだか、ちょっと楽しくないですか?」
美智が少し照れくさそうに笑うと、山﨑さんと静香は、一瞬きょとんとした顔を見せ、それから同時に吹き出した。美智がそう言うと、本当にそう思えてくるから不思議だった。
たった一晩の、短い休息。
この時三人の心は、まるで長年連れ添った戦友のように、深く、揺るぎない絆で結ばれた気がした。
<次の話>
<リンク>
#0 「苦難の会社員」あらすじ・プロローグ
#1 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#2 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#3 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#4 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#5 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#6 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#7 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#8 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#9 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#10 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#11 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#12 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#13 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#14 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#15 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#16 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#17 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#18 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#19 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#20 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#21 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#22 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#23 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#24 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#25 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#26 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#27 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#28 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#29 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#30 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#31 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#32 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#33 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#34 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#35 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#36 「苦難の会社員」エピローグ