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#4 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空

    #4 第一章 午前九時の空


     家の前では、タクシーがハザードランプをテンポよく灯しながら、主を待っていた。松本浩作は、某アパレル企業でその舵取りを担う代表取締役を務めている。今日も優雅な朝食を切り上げ、出立の門をくぐるところだった。

    「あなた、いってらっしゃい」
    「ああ」

     妻の声に短い相槌だけを返し、玄関の重い扉を開け放つ。その瞬間、容赦のない朝の寒気が、鋭いナイフのように頬をかすめた。

     仕立ての良いウールコートの襟を少しだけ立て、松本は目の前のタクシーへと真っ直ぐに歩を進める。アスファルトを踏み締める革靴の音が、まだ静まり返った住宅街に、コツコツと硬く響き渡った。ハザードランプの規則的な明滅に視線を落とす顔つきはどこまでも精悍で、社長然とした独特の力強さを放っている。

     後部座席のドアが滑らかに開くと、暖房の心地よい熱気が、乗り込んだ松本を暖かく迎え入れた。

    「おはようございます」
    「ああ、いつも通り本社で頼む」
    「承知いたしました」

     専属の運転手がバックミラー越しに恭しく一礼すると、タクシーは滑り出すように発進した。

     窓の外を、見慣れた街並みがゆっくりと流れていく。今年で創業二十期目。ワンルームの一室から始めた事業は破竹の勢いで成長を続け、気づけば都内の一等地にあるオフィスビルを、二フロアも借りられる規模にまで大きくなった。今や従業員数は、数百人にも上る。

     松本はその景色を、どこか他人事のように眺めていた。

     数字も、店舗も、社員の顔ぶれも、すべてが桁違いに大きくなった。なのに、実感がまるで湧いていない。窓ガラスに薄く映り込む自分の顔は、あの小さなマンションで一人パソコンに向かっていた頃と、何か変わっているだろうか。自分の座る椅子だけが、身の丈に合わないほど大きくなったように感じてしまう。

     自分は、運が良かった。突き詰めれば、それだけのことだと思う。

     もっとも、そんな本音を社員の前で漏らすことは決してしない。松本は、自分の才覚で全てを築き上げた男というのを、隙なく演じ続けている。今更、役を降りるわけにはいかない。降りた瞬間に、何かを失ってしまうのが怖かった。

    「行ってらっしゃいませ」
    「ありがとう」

     道中、事故による渋滞に嵌ってしまい、タクシーがオフィスビルの正面に滑り込んだのは、八時四十分を回った頃だった。運転手の声を背に車を降りると、再び冷気が肌を刺す。

     見上げれば、見慣れた高層ビルが、抜けるような澄んだ空にまっすぐと伸び、綺麗に朝焼けを反射していた。この上層階の二フロアが、松本の率いるアパレル企業の本社オフィスだ。

    「社長、おはようございます。今日も早いですね」

     不意に、聞き馴染んだ声がした。振り返ると、ベリーショートの金髪の女性が、カシミアのマフラーに顔を埋めながら歩み寄ってくるのが見えた。

     副社長の鈴木京香だ。大学時代からの友人であり、共にこの会社を立ち上げた相棒でもある。

    「ああ、鈴木か。歳のせいで、どうも早起きになってな」
    「お互い、順調に歳をとってますからねー」

     会社を立ち上げたのは、松本と鈴木が互いに三十歳の時だった。それが今年で、二人揃って五十歳を迎える。改めて思い返せば、彼女とは随分と長い付き合いになったものだ。

    「お前の方は、相変わらず若く見えるがね」
    「お、褒め言葉ですか? どうもありがとうございます」

     二人は自動ドアを抜け、一階のエントランスを踏み歩く。松本はその一歩ごとに背筋を伸ばし、顎を引き、表情から余計なものを削ぎ落としていった。エレベーターの鏡に映るのは、威厳に満ちた経営者の顔だ。

    「社長って、従業員の前で格好つけようと必死ですよね」
    「大事なことだろう」

     鈴木は副社長然としない飄々とした口調でからかうように笑うと、手元のホットコーヒーを一口すすった。松本は、ぶっきらぼうな様子のまま、それを否定することをしない。

    「別に、昔みたいに気さくでいいと思いますけどね」
    「昔と今は、規模が違うだろう」

     二十階で、扉が開いた。

     執務室に足を踏み入れると、すでに何人かの社員が席に着いて、仕事を始めていた。挨拶をされても松本は鷹揚に頷きを返すだけで、一人ひとりに言葉をかけることはしない。それが、社長然を徹底する松本の流儀だった。一方で鈴木は、誰にでも軽口を叩いては、笑いを誘うようなことをする。

     それにしても、今日は随分と人が少ないようだった。いつもならキリがないはずの鈴木の挨拶も、今朝ばかりはフロアにいる全員を回れてしまいそうなほど、席の多くが空いている。

    「社長が出社する時間だから、みんな隠れちゃった?」

     鈴木は、またいつもの軽口を叩きながら、挨拶回りという名のお喋り行脚を始めたようだった。

    「リモートワークのメンバーが多いのだろう」

     執務室を練り歩く鈴木を横目にぼそりと呟くと、松本は、一番奥にある社長室へと真っ直ぐに歩を進めた。


    <次の話>


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    #0 「苦難の会社員」 あらすじ・プロローグ
    #1 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #2 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #3 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #4 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #5 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #6 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #7 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #8 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #9 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #10 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #11 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #12 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #13 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #14 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #15 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #16 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #17 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #18 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #19 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #20 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #21 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #22 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #23 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #24 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #25 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #26 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #27 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #28 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #29 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #30 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #31 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #32 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #33 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #34 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #35 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #36 「苦難の会社員」 エピローグ

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