
#13 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#13 第二章 罪の記憶
静まり返った執務室には、人が皆去ってしまった後のような、冷え冷えとした寂寥感が満ちている。
静香は自分のデスクでひとり、記憶を必死に遡っていた。去来する現実感と違和感を交互に秤に掛けるたび、答えのない問いに、頭が引き裂かれそうになってしまう。
どこまでが、干渉されていない本物なのか。自分の頭の中にいる自分が、果たして本当に自分なのかすら、もう分からなくなる。
煮詰まる思考の果てに、静香は、抗いようのない眠気に唐突に引きずり込まれていった。
現実の輪郭が急速にぼやけ、意識の糸がぷつりと切れたその先で、遠い昔の記憶を夢に結び始める。
静香が、まだ高校生だった時の記憶──。
ひとしきり桜が散って、拍子抜けするほど穏やかな残春。教壇に立つ歴史の先生の湿り気を帯びた低い声が、子守唄のように教室に響き渡っていた。
晴天を透かす窓の側では、日に焼けたカーテンを背に、小さな埃の粒が踊るようにキラキラと光っている。開け放たれた窓から、時折、生ぬるい風がプリントの端を揺らした。
高校生の静香は頬杖をつきながら、ただじっとして、チャイムが鳴るのを待ち続けていた。
静香は最初から、歴史の授業が嫌いだった。自分のことを凡人と割り切っている静香からすると、ヒロイズムをなぞるだけのこの時間が、つまらなくて仕方がない。教科書の隅に落書きでもしている方が、よっぽど有意義に思えるほどだった。
視線を少しだけ右に移すと、一列前の席で舟を漕いでいる人影が目に入る。親友の青葉だ。うとうとと規則的に揺れるその背中を見ていると、つい頬杖をつく手が緩み、呆れたような笑みが零れそうになる。
静香と青葉は、小学生の時からの幼馴染で、何をするにも、どこに行くにも、いつも一緒だった。仲良くなったきっかけは忘れてしまったけれど、何と言うか、バランスの取れた二人だったと思う。
青葉は、ヒーローだった。
静香が嫌うような大層な存在という意味ではなく、ただ、静香のまわりの世界をいつも明るく輝かせてくれる、小さな神様。何か特別なことができるわけではない二人だからこそ、同じ目線で、同じ気持ちで、安心して隣に立っていられる人。
不安な時には一緒に不安になるし、楽しい時には一緒に楽しくなる。退屈で、今を過去へと押し流していくだけの作業が、青葉となら、自然と特別な時間に変わってしまう。
理屈では語れない、青葉と過ごす幸せな日常が、静香は本当に大好きだった。青葉のためなら何でもできる。本心で、そう思っていた。
授業後のホームルームが終わって担任が教室から出ていくと、穏やかな空気は、蜂の巣をつついたような喧騒に変わる。静香たちは筋金入りの帰宅部なので、だらだらと帰り支度を進めた。
「ねえ、後景化って知ってる?」
帰り道、二人で公園のベンチに腰掛けていた時、青葉がふとした拍子にそう切り出した。
読書家である青葉は、とても物知りだった。いつも、読み終えた本の話を惜しげもなく静香に共有してくれる。目から鱗が落ちるような話を。
「コウケイカ……? どんな漢字で書くの?」
静香は、首を傾げた。それは、初めて聞く言葉だった。
「後ろに、景色が、化けるだよ」
そこまで聞いても、静香にはまだイメージが湧かない。青葉は、淡々と話を続ける。
「そうだな、確かにそこに存在するものが、意識の背景に隠されちゃうっていうイメージかな。例えば、カフェで集中して読書をしている時って、周囲の話し声があまり聞こえないじゃない?」
静香は「うん」と頷く。
「名前を呼ばれるとか、きっかけがあれば意識の先に引き戻せるけど、スポットライトが外れてしまった状態を、後景化している状態って言うの」
読書好きな青葉らしい例えだな、と思った。静香はすぐに納得して「なるほど」と相槌をうつ。青葉は遠くのビルの方に視線を移し、話を続けた。
「この仕組みって、政治とかにも使われているらしいよ。国民にとって都合の悪い政策を国会で通すときに、芸能人のスキャンダルとか目の引くようなニュースを流して、肝心の政策の話を後景化させるんだって」
そういえば、確かにそんな話を、静香もSNSで見たことがある。これまでは「また陰謀論か」と気にも留めずにスルーしていたけれど、後景化なんて言葉が存在するのだと知って、あながち本当なのかもしれないな、と静香は思い直した。
「ここまでが前段。本題は、少し派生した話ね」
青葉の関心を引くプレゼンの手腕には、いつも脱帽させられる。前段の時点で、次の展開を気にする静香の胸は、すでにわくわくと高鳴っていた。
「記憶にも、完全に忘れてしまう前に、きっかけさえあればもう一度思い出せる状態があるらしいの。何かの拍子にあっと思い出せるなら、それは意識の隅っこで出番を待っている、後景化されただけの状態みたいだよね」
難しい話だけど、なんとなくイメージができた。匂いや、音や、空気感。何気ないきっかけで、過去の映像が脳裏に浮かび上がる瞬間が、たまにある。そして、その瞬間までは一切思い出すことなんてなかった、というのが定石だ。
「じゃあ、記憶って一度どこかに弾き出されて、その後、完全に消える瞬間もくるの? それってどれくらいの時間がかかるんだろう」
静香は、頭上に広がる青空を眺めながら、青葉の見解を待つ。
「忘れるメカニズムって、全部無意識の中で起きてしまうから、正直分からないんだよね。記憶の仕組みって、まだまだ謎だらけなんだって」
確かに、当たり前だけど「何かを思い出す瞬間」はあっても「何かを忘れる瞬間」というものは実感したことがなかった。いつ、何を忘れてしまったのかは、誰にも分からない。
気づいた時には今日の青葉との会話も、いつもの放課後の風景というひとまとめの塊になって、知らない間に輪郭を失ってしまうのだろう。
「記憶の仕組みって、なんだか憎いね。全部覚えていられれば良いのに……」
静香の呟きに、青葉が「しんみりしなさんな」と頬を小突きながら笑う。そのまま、静香の目を見つめながら、続きを語り始めた。
「それと、もうひとつ。記憶は、その人だけのオンリーワンなの。一緒にいても、自分と他人の間で同じものにはなり得ない。記憶はね、その人の解釈で形作られる仮想現実みたいなものだから」
まだ知らないことがあるのかと、話を聞く静香の姿勢が、ぐっと前のめりになる。
「私たちは、受け取った情報を頭の中で解釈する。それが記憶になるの。例えば、写真を例にとるね。写真って、見る人によって感じる印象が違うでしょ?」
静香は、うんと頷きを返す。
「写っているのは同じ一つの物理的な事実なのに、見る人それぞれの独自の解釈が存在する。それが記憶になる。だから、人と人との間で絶対に不整合が生じてしまう。これが、記憶の特徴」
多分、その解釈というのは、類似するものもあれば、真逆の意味で捉えてしまうような極端なものもあるのだろう。
「でね、私たちは都合よく情報を処理しちゃうの。見たいものばかりを像に結ぶし、見たくないものには、蓋をしちゃったりする。意図せず見えていないって時もあるね。そうして、自分だけの仮想現実を創り上げる」
話を聞いているうちに、目の前に広がる何気ない公園の風景ですら、幻想のように思えてきた。いつの間にか、太陽が地平線の向こうへ隠れようとしていて、公園は濃い群青色とオレンジ色のグラデーションに包まれている。ブランコの鎖が、遠くで、きい、と小さく軋んだ。
もし青葉の言う通り、今日という日の記憶も、陽が沈むようにいつかどこかへ消えてしまうのだとしたら。静香は、そのひとつひとつを丁寧に、零さないように、未来に持って行きたいと思った。
青葉とこうやって話をする時間が、静香は大好きだったから。
「……、…か、静香!」
近くで自分の名前を呼ぶ声が聞こえた気がして、静香はハッと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、夕暮れの公園ではなく、無機質で、けれど雑然とした執務室だった。頬に触れるデスクの冷たさに、置かれた現実の状況を思い出す。
「あ……おはよ、美智……? ごめん、気づいたら寝落ちしてた」
「もう、静香、死んじゃったかと思って焦ったよ!」
美智は、大袈裟に胸を撫で下ろしながら、ため息を吐き出した。
「そんなはずないでしょ。不謹慎なこと言わない」
「割と、本当に焦ったんだって」
安堵と不安の混ざったような複雑な笑顔が、寝ぼけ眼の静香に向けられている。それにしても、どうして急に、あの時の夢を見たのだろう。
──記憶はね、その人の解釈で形作られる仮想現実みたいなものだから
青葉が語っていた言葉を、脳裏で反芻する。
記憶や仮想現実という言葉から一番に連想したのは、この閉鎖されたオフィス空間そのものだった。
もしかすると、ここは誰かが都合よく像を結んだ、仮想的な世界なのかもしれない。その精神世界のようなところに、何らかの理由でこの九人が巻き込まれ、閉じ込められてしまったとか。
──記憶には、完全に忘れてしまう前に、スポットライトの外に弾き出されただけの状態があるらしいの。きっかけさえあれば、もう一度思い出せる状態
そして、静香たちがここを出るために思い出さなければならない記憶。それを思い出すきっかけを、この空間は与えてくれる。
不思議な感覚だった。
夢から覚めたその瞬間から、静香の頭は冴え渡っていた。まるで最初から知っていたかのように、この奇妙な空間の概念やルールへの仮説が、驚くほど滑らかに、頭の中で浮かび上がってくる。
もしかすると、この空間を支配するホストの手によって、静香は、青葉が話してくれた記憶を『思い出させられた』のではないか、と思った。
そう考えた瞬間、静香の胸の奥では、一つの奇妙な確信が芽生え始める。
この空間のホストは私たちを閉じ込め、陥れようとしているのではない。
むしろ、ここからの脱出を密かに手助けし、誘導しようとしているのではないか、と。
<次の話>
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#0 「苦難の会社員」 あらすじ・プロローグ
#1 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#2 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#3 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#4 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#5 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#6 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#7 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#8 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#9 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#10 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#11 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#12 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#13 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#14 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#15 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#16 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
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#19 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#20 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#21 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#22 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#23 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#24 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#25 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#26 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#27 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#28 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#29 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#30 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#31 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#32 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#33 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#34 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#35 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
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