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#32 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ

    #32 第三章 苦難のしもべ


     炭火の爆ぜる音が、夜の研修施設に薄く響き渡っていた。

     静香は、その場所で、紙皿を持ったまま、ほとんど何も口にできずにいる。視線だけが、何度も何度も、施設の建物の方へと吸い寄せられてしまう。

     美智が、いない。

     会議のあと、社長たちに呼び出されて奥の部屋へ消えたきり、美智は一度も姿を見せていなかった。もうどれくらい経つのだろう。腕時計を見ようとして、手が震えていることに気がついた。

     声をかけたかった。あの会議室を出ていく美智の背中に、追い縋ってでも、美智の味方だと、伝えたかった。けれど、できなかった。資料がすり替えられていたこと。先輩たちが、揃って口を噤んだこと。何もかもが分からないまま、静香はただ、囲まれた冷たい視線の中で立ち尽くすことしかできなかった。

     あんなに一緒に頑張ったのに。隣に、いたのに。

    (私は、何もできなかった)

    「……静香ちゃん」

     小声で名前を呼ばれ、顔を上げる。山﨑さんだった。紙コップを持ったまま、笑ってなどいない目で、建物の方を見ている。

    「美智ちゃん、探しに行こう」

     静香は、無言で頷いた。二人はバーベキュー会場をそっと外れ、施設の建物の中へと足を踏み入れた。

     廊下は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。古い木造の建物が、軋む音だけを返してくる。エントランスにも、カンファレンスルームにも、化粧室にも、美智の姿はなかった。

     二階の廊下の突き当たり。そこまで来た時、山﨑さんの足が、ぴたりと止まった。

     美智の部屋。半分ほど開いたドアの隙間から、廊下の薄明かりが、部屋の床を細長く照らしている。近づくと、その光の帯の先に、見てはいけないものが、あった。

    「──ひっ」

     喉の奥で、声が潰れた。

     藤牧さんが、床に横たわっている。胸に突き立ったものと、その下でじわりと広がる赤黒い染み。浅く、途切れ途切れの呼吸が、静まり返った部屋に、かすかに響いている。

     現実感が、音を立てて剥がれ落ちていった。静香の膝から力が抜け、ドア枠にしがみつくようにして、なんとかその場に立っていた。

     山﨑さんは、弾かれたように藤牧さんに駆け寄り、膝をつく。

    「藤牧さん……! しっかり、今、人を──」

     叫びかけた山﨑さんの言葉が、途中で止まった。

     その視線の先。藤牧さんの傍らの床に、見覚えのあるものが落ちていた。今日、会議の直前まで、美智が祈るように両手で握りしめていた、社員証のストラップ。

     静香の頭の中で、何かが繋がりそうになって、必死にそれを振り払った。違う。そんなはずがない。美智が、そんな。

    「……ちが……」

     掠れた声がした。藤牧さんの唇が、動いていた。途切れ途切れの言葉が、すべてを告げた。

     山﨑さんは、長い間、動かなかった。

     藤牧さんの顔と、床に落ちたストラップを、順番に見つめている。その横顔から、みるみるうちに表情が抜け落ちていくのを、静香は見た。

    「……静香ちゃん」

     やがて、山﨑さんが、恐ろしいほど静かな声で言った。

    「廊下に出てて。誰か来ないか、見てて」
    「や、山﨑さん、それより早く、人を呼ばないと……!」
    「呼んだら、美智ちゃんは人殺しになるかもしれない」

     その一言が、静香の全身を貫いた。山﨑さんは、藤牧さんの顔を覗き込む。その表情を見た瞬間、山﨑さんがこれから何をしようとしているのか、静香には分かった気がした。

    「山﨑さん……でも、そんなことしたら……!」

     山﨑さんの唇が、わずかに動いた。声にはならなかったけれど、静香には「大丈夫」と、そう動いたように見えた。

    「静香ちゃん、見ないで」

     静香は、動けなかった。廊下に出ることも、目を閉じることもできないまま、ドア枠を掴んだ指先だけが、白くなっていく。

     山﨑さんの両手が、藤牧さんの胸に刺さったナイフを引き抜き、もう一度、静かに振り下ろされるのが視界の端に映った。

     静香は、反射的に顔を背けた。どれほどの時間だったのか。数秒だったのか、永遠だったのか。

     浅かった藤牧さんの呼吸の音が、聞こえなくなった。

     振り返ると、山﨑さんが、床に座り込んだまま、赤く染まった自分の両手を、じっと見つめていた。その肩が、小刻みに震えているのが分かる。

    「……これで美智ちゃんは、殺してない」

     誰に言うでもなく、自分に言い聞かせるように、山﨑さんは、小さな声で呟いた。


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    #0 「苦難の会社員」あらすじ・プロローグ
    #1 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
    #2 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
    #3 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
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