
#24 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#24 第二章 罪の記憶
そろそろ夕食を食べようかという雰囲気が、どこからともなく漂っているのを察した町田は、皆と一緒に二十階にある大会議室で、全員が揃うのを待っていた。
けれど、どれだけ待っても、髙野くんと桜木が一向に現れない。もしやと思い、町田が黒い壁を確かめに行くと、やはり予想は的中した。
松本社長と鈴木副社長に加えて、新しく二人の名前が、そこに刻まれている。町田の後ろを恐る恐るついてきた一同も、その決定的な現実を、ただ息を呑んで見つめていた。
「そんな……」
最後に桜木といたらしい遠山さんが、困惑したように声を震わせた。かなり動揺しているように見える。夕方前に二人で着替えを済ませた後、桜木はショールームの片付けをすると言って、ひとり十九階に残っていたらしい。
その空白の時間に何があったのかは分からない。ただ、桜木もまた何かを思い出して、あの黒い壁の向こうへ渡る権利を得たのだろう。
一方で髙野くんに関しては、午後以降の足取りを知る者が誰もいなかった。おそらく、かなり早い段階でここを脱出したはずだ。彼と同じ部署の山﨑さんは、遠山さんと同じくひどく血の気が引いており、虚ろな目で宙を睨んでいた。信頼していた髙野くんに、一人だけ置いていかれた絶望感からだろう。
残されているのは、山﨑さん、遠山さん、美智ちゃん、藤牧、そして自分。大所帯だったメンバーも、随分と少なくなってしまった。
「ここを出ていく前に、挨拶したりはできないもんなのかね? 揃いも揃って、黙って消えていくけど」
藤牧が、苛立ちを隠せない様子で、吐き捨てるように呟いた。
「察するに、思い出した瞬間に強制送還的な感じなのかな」
町田は、確信めいた新たな仮説を静かに口にする。
表情にこそ出さなかったが、町田の内心にも、じわじわと焦りが生じ始めていた。目に見えて仲間が消えていく。その現実は、自分自身がすでにこの世を去った幽霊であるという不吉な可能性を、刻一刻と跳ね上げていたからだ。
立ち尽くしていても埒が明かないので、町田たち一同は会議室に戻り、夕食を食べることにした。
今夜のメニューは、レトルトの根菜スープだった。電気ケトルで温めただけのスープから立ち上る湯気が、広すぎる会議室の冷えた空気に、白くふわふわと溶けていく。誰も喋らず、ただ機械的に顎を動かすだけの時間が、ゆっくりと流れた。
「ここにいる皆は、あれから何も思い出せてないんだよね?」
食事を終えた町田が、沈黙を破って問いかける。全員が一瞬顔を見合わせた後、小さく首を縦に振って、それに同意を示した。
「多分、髙野くんも桜木も、同じだったと思うよ。何かを思い出した様子なんて微塵もなくて、さっきまで普通に話していたのに突然、でしょ。だから、焦らなくて良いってこと。その時が来れば、嫌でも分かるんだよ」
町田がそんな優しい言葉をかけたのは、そこにいる女性陣があまりに不安そうな顔をしていて、見ていられなかったからだ。そこに大層な打算や計算があるわけではない。ただ単に、これ以上その場の空気が張り詰め、気まずくなる状況が嫌なだけだった。本音を言えば、町田は自分以外の誰かが死んでしまった幽霊であってほしいと、躊躇なく思っている。
「みんな、思い出せるかどうかじゃなくて、自分が死んでるかもしれないことが不安なんじゃねえの?」
すると、藤牧が横から口を挟み、容赦なく核心を突きつけた。
町田の不器用な優しさを切り裂くようなその一言に、会議室の空気は、再び一瞬にして凍りつく。
ジジ……ジ……ジ。
その時。
あの不気味な駆動音が、再び耳に飛び込んできた。
やがて、これまで経験した時と同じように、無機質な文字が、会議室のモニター画面に浮かび上がっていく。
「今度は何だ?」
藤牧が、怪訝そうにモニターを睨みつける。会議室にいた全員の視線も、吸い寄せられるようにして、その一点に向けられた。
『その人は生きている』
その言葉が映し出された瞬間、その場には安堵とも、当惑ともつかない大きなざわめきが広がった。
「何だこれ。幽霊なんていなかったのか? じゃあ、存在しないはずの社員って、罪って、何なんだよ」
藤牧は、信じられないといった風に目を丸く見開き、驚きを滲ませている。怒りを押し殺すかのような彼の呼吸は目に見えて荒く、その鋭い視線は、行き場をなくしたように泳いでいた。
その間、町田は急速に思考を巡らせる。これまでの前提そのものが間違っているのだとしたら、何が考えられるのだろう。生きている人が、存在しないはずであるということは、何を意味するのか。考えるほどに浮かび上がってくる可能性は、あまりに不気味だった。自分たちが信じ込んできた前提が、根底から覆ろうとしているのを、町田は自覚する。
「逆だ」
町田の、かすれた声が静まり返った会議室に響き渡った。そのまま、恐ろしい仮説が堰を切ったように溢れ出した。
「生きている人たちの中に、幽霊が混ざっているという前提が間違ってたんだ。他の全員が幽霊で、その人だけが、まだ生きているのかもしれない……。つまり、ここは死後の世界で、生きているその人が存在しないはずの場所なのだとすれば、全て辻褄が合う」
その言葉が、凍りついた室内に、じわじわと染み込んでいく。
やがて、会議室には、完全な沈黙が降りた。誰一人として声を出せない。町田の仮説を否定したいのに、反論の言葉が上がってこない。考えていることは、皆同じのようだった。
この中で、生きているのは一体誰なのか。もし他の皆が死んでしまったのだとしたら、それはどうしてなのか。壁に名前が刻まれた四人は、どこに行ってしまったのか。
互いの顔を、そして自分自身の存在を疑うようにして、おそるおそる視線を交わし合う。
流れの淀んだ水が濁るように、会議室の空気が張り詰めるのが分かった。吸い込むたびに肺の奥が凍りつくような異様な重苦しさが、その場をじわじわと満たしていく。
しばらくすると、窒息しそうな空気に耐えかねたように、誰からともなく「そろそろ眠ろう」と声が上がり、それを合図に、皆が逃げるようにして、再び散り散りになった。
散会して静まり返った会議室の中で、町田は、ゆっくりと目を閉じた。そのまま、テーブルにぐったりと突っ伏する。
この人数になったこともあり、今更男女でフロアを分けるようなことはやめることになった。今は、それぞれが自分の居心地がいいと思う場所で、自由に過ごしている。
町田はその場から立ち上がれなかった。気が抜けたのだ。直感的に、理解してしまった。
自分の命はもうとっくに尽きてしまっており、自分はこの空間を彷徨っている幽霊なのだろう、と。
そう悟った途端、張り詰めていた糸がぷつりと切れたかのようにして、身体から一切の力が失われた。
そのまま、電源が急に落ちてしまったかのように、すとんと眠りに落ちてしまった。
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#0 「苦難の会社員」あらすじ・プロローグ
#1 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#2 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#3 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#4 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#5 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#6 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#7 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#8 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#9 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#10 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#11 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#12 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#13 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#14 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#15 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#16 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
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#25 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#26 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
#27 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#28 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#29 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#30 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#31 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#32 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#33 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#34 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#35 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#36 「苦難の会社員」エピローグ