
#8 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#8 第一章 午前九時の空
十九階の階段前に立ち尽くしたまま、山﨑陽菜は、ただ、そこにある黒い壁を見つめていた。
それは、すべての光を飲み込むような、底無しの漆黒だった。上から下まで一点の揺らぎもない均一な黒の塊によって、階段の続くはずの踊り場が、綺麗に断ち切られている。まるで、その境界線から先の空間だけが、ナイフで切り取られてしまったかのようだ。
「……何だこれ」
いつも冷静に見える町田さんのカサついた声が、狭い階段室に小さく響き渡る。その場にいる他の皆は重々しく息を呑み、一切の言葉を失っていた。
空があの悍ましい赤色に染まっていることに気づき、激しい雪が降り始めたときから、オフィスを満たす空気は完全におかしくなっている。
最初の頃の山﨑は、とんだ異常気象に巻き込まれてしまったものだと、どこか楽観視していた。けれど、目の前にあるこれは、明らかに性質が違っていた。常識では説明のつかない、得体の知れない何かが起きているのだと、本能で理解せずにはいられなかった。
「本当に……塞がれてる……」
隣で美智ちゃんが声を震わせ、遠山さんの服の裾を掴んでいる。桜木さんもまた、唇を硬く結び、目の前の黒い壁を睨みつけるようにして、じっと見つめていた。張り詰めた静寂が、鼓膜を不気味に圧迫する。
そもそも、今日は起きた瞬間から憂鬱だった。酒の勢いとはいえ、髙野くんと一線を越えてしまった事実だけでも、十分に胃が捩れるような問題だ。
会社に着いたら、何事もなかったかのようにいつも通り振る舞う。それだけが、今日を乗り切る唯一のルールになるはずだった。けれど、世界の方が、いつも通りではなくなってしまった。
あまりに非現実的な光景の連続に、山﨑は頭の芯が痺れるような感覚を覚える。昨夜の出来事も、その後に続くはずだった気まずい日常も、この不条理な黒い壁の前では、あまりに無意味で些細な出来事に思えてくるから不思議だ。
「これ、触ったらどうなるのかな?」
静寂を破ったのは、鈴木副社長だった。緊迫した空気をひとり愉しむような様子で、今にもその黒い壁に指先を伸ばそうとしている。
「おい、やめろ鈴木!」
松本社長の鋭い制止の声が、狭い階段室に響き渡った。鈴木副社長は、黒い壁のわずか数センチ手前でぴたりと指を止めると「冗談ですよ」と肩を竦めて振り返り、先を続ける。
「でも、誰かが確かめなきゃ進まないでしょ? このままここで、みんなで固まって餓死するのを待つの?」
餓死──。生々しい言葉が冷たい棘となって、山﨑の胸に深く突き刺さる。本当にしばらくここから出られないのだとしたら、それは決して大袈裟な話ではなく、いつか直面する現実なのかもしれなかった。
「とにかく、状況確認は十分だ。一旦戻って、整理しよう」
松本社長の言葉を合図にして、山﨑たちは逃げるように階段室を後にした。二十階にある一番大きな会議室へと、黙って全員で歩を進める。
途中、窓から見える禍々しい赤色の空が、変わらず大雪を降らせているのを確認した時、事態が好転する兆しなど微塵もない現実に、深い溜息がこぼれた。
「……さて、状況を整理しよう。髙野くん、仕切ってくれるか」
全員が会議室に入るなり、松本社長が、低く厳かな声を絞り出した。こういった会議の仕切り役は、普段からマーケティング部に回ってくることが多い。今回は、髙野くんがその役を引き受けた。
「はい、整理します。外は原因不明の赤い空。そして、大雪。窓から見える景色だけでは視界が悪く、それ以上の詳細な状況は掴めません。ビル内はエレベーターが動かず、階段も黒い壁によって塞がれているため、オフィスの出入り口が完全に失われた状況です」
淡々と端正な敬語で説明を続ける髙野くんと、一瞬だけ目が合った。仕事モードの冷静な彼を見るほどに、昨夜、山﨑の体を包み込んでいたあの熱い温度が、今になって急にフラッシュバックしてくる。気まずさで、息が詰まった。
「さらに言えば、全ての通信手段が遮断されている状態です。SNSを閲覧することも、電話をかけることも、勿論できません。現在の時間は──」
その時、会議室の壁にかかっている時計を見上げた髙野くんの言葉が、突然ぴたりと鳴り止んだ。それにつられるようにして、全員の視線が、壁のアナログ時計へと一斉に向けられる。
午前九時〇〇分。
「この時計、おかしい……です。さっき皆で赤い空に気づいた時間が九時きっかりだったから、もう三十分以上は、確実に経っているはずです……」
パーマのかかった頭を掻きながら髙野くんがそう言うと、全員が自身のスマホや腕時計に目を走らせる。けれど、時計はやはりどれを確認しても、九時きっかりを指していた。
「多分、時間そのものが止まってるってことじゃないですかね……? オフィスの中だけ、時間の進み方がおかしくなっていて、外に出るとちゃんと元の日常が流れてる、みたいな……」
山﨑は、自身のスマホに目を落としたまま、映画で見たような仮説を恐る恐る呟いてみる。他の皆も、ただ無言で自身のスマホ画面や腕時計を見つめたまま、重苦しい沈黙を肯定の代わりにしているようだった。
「こんな状況じゃ、もう、何が起きても驚かねえな」
「完全に、SFの世界だね」
少しおいてから、藤牧さんと桜木さんが、半ば投げやりな口調で吐き捨てるように声を発した。それを受けて髙野くんは慌てて話を戻し、会議の仕切りを続ける。
「と、とにかく、僕たちが考えなければならないのは、このオフィスから脱出する方法と、脱出方法が見つかるまで耐え忍ぶ方法、といったところでしょうか。時間が止まっていることがどう影響するのかも、考えなければいけない……」
髙野くんは、すかさず論点を整理するように一同を見回した。その視線が、再び自分のところで戸惑うように揺れたのを、山﨑は見逃さない。
彼は普段から目上の人の前だと、驚くほどに器用で品の良い振る舞いをして見せる。だからこそ、松本社長も彼に信頼を置き、この会議の仕切り役を迷いなく任せたのだろう。
仕事中の隙のない敬語と、業務外で見せる等身大の素顔のギャップが、彼という人間の底知れない魅力だった。
「まずは後者の件について、食料のストックとか確認しませんか? 確か、給湯室の近くに非常食のストックがあった気が──」
ジジ……ジ……ジ。
その時。
会議室に置いてあったモニターの画面が、突如として不気味な駆動音を立て、朧げに何かを映し出した。
電源プラグが抜かれているはずの画面に、白く無機質な文字列が、ゆっくりと浮かび上がっていく。
『九人の中に、存在しないはずの社員が紛れている』
その瞬間、山﨑は、背筋の奥を冷たい指でなぞられたような悪寒が、じわりと這い上がってくるのを感じた。
<次の話>
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#0 「苦難の会社員」 あらすじ・プロローグ
#1 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#2 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#3 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#4 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#5 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#6 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#7 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#8 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#9 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#10 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#11 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#12 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#13 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#14 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#15 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#16 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#17 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#18 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#19 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#20 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#21 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#22 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#23 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#24 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#25 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#26 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#27 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#28 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#29 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#30 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#31 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#32 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#33 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#34 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#35 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#36 「苦難の会社員」 エピローグ