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#23 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶

    #23 第二章 罪の記憶


     桜木には昔、売れないバンドマンの彼氏がいた。まだ、専門学生だった頃の話だ。名前は、蒼太という。

     蒼太と出会ったのは、服飾の専門学校に入学して半年ほどが経った頃。家の近くのライブハウスでバイトを始めた時のことだった。

     スピーカーから爆音で流れる重低音、汗とタバコの匂いが染み付いた楽屋、そしてステージを照らすストロボの眩しさ。そのすべてが、当時の桜木には新鮮で刺激的だった。

     蒼太は、そのライブハウスを拠点にバンド活動をしていた。お世辞にもお客さんが入っているとは言えない状態だったけれど、必死で活動を実らせようと努力を続けていた。大学の同級生だというメンバーとスリーピースバンドを組み、荒削りながらも力強い音楽を掻き鳴らしている。

     とにかく真っ直ぐで、純粋で、どこまでも快活な青年だ。汗まみれになってギターを弾く彼の姿を見て、桜木はいつの間にか、贔屓目に応援をするようになった。それからというもの、ドリンクカウンターの隙間から彼のステージを見るのが、バイト中の心からの楽しみだった。

     ライブ後にはいつも近くの安い居酒屋へ打ち上げに行って、メンバーや他のバンドマン、そこで働くスタッフ、そして桜木も交えて、朝までバカみたいにはしゃいだ。

     高校生のときは、ただ好きな服を着ているだけで変わった奴だと遠巻きにされ、ずっと孤独を感じていたけれど、このライブハウスの仲間たちは違う。

     個性を突飛な魅力として受け入れ、楽しんでくれる仲間たち。彼らに囲まれたこの空間は、生まれて初めて見つけた、桜木にとって最も息がしやすい、大切な世界だった。

     桜木は、その中でも特に、蒼太のことが好きだった。

     不器用で、だけど愚直なまでに真面目にバンドを続ける彼だからこそ、他人の好きなことを決して馬鹿にせず、桜木の尖った個性をも、ひとつの才能として誰より高く評価してくれた。

     気づけば、ライブ終わりに個人的に感想を伝えたり、おすすめのCDを借りたりする関係にもなって、互いに惹かれ合った桜木たちは、どちらからともなく付き合うことになっていた。

     それからも、変わらず蒼太のバンドを応援し続けた。蒼太もまたそれに応えるようにして、客席に誰もいなくても、世界に何かを訴えかけるような目で、ギターをかき鳴らした。

     桜木は、これからもっと多くの人たちに蒼太の音楽が届くと、信じて疑っていなかった。

     けれど、純粋な歯車は突然狂ってしまう。

     それは、同じライブハウスで活動をしていた兄弟分のバンドがとんとん拍子で人気を集め、ついにはメジャーデビューを決めた時のことだ。あの時から、蒼太たちのバンドは、不仲になっていった。

     蒼太がどれだけ必死にメンバーを鼓舞しても、メンバーたちの心に灯った劣等感の火を消すことはできなかった。それに当てられたかのようにして、蒼太の瞳にもじわじわと諦念の色が浮かび、かつての真っ直ぐな輝きは、完全に失われていった。

    「あの頃の俺たちの熱量は互角だった。あいつらが売れたのは、運が良かっただけだ」

     深夜の狭いアパートで、買ってきた発泡酒の缶を握りしめながら、蒼太は何度も何度も同じ話を繰り返す。まるでそうしなければ、自分の存在価値が消えてなくなってしまうと怯えて、自分自身に言い聞かせるように。それからの蒼太は、目も当てられないほど自堕落な生活を送った。

     桜木は、そんな彼に素直な言葉をかけることができなかった。自分が決定的な言葉を放った瞬間に、何かが完全に終わってしまうような気がして、ただただ恐かった。そのうちに、互いの境界線を探り合うような、傷つけ合うような駆け引きばかりが繰り返され、最終的に二人は、別れることになった。

     純粋で、実直であればあるほど、その心は脆い。容赦のない現実を前にした時、人の心がいとも容易くへし折れてしまうのだということを、桜木はあの日々で、嫌というほど思い知らされた。

     まっすぐで、どこまでも純度の高い芯だからこそ、一度ひびが入れば持ちこたえられず、ガラス細工のように、ぽきっと折れてしまうのだ。

     あのオフサイトの日──。

     桜木は決して発してはならない言葉を、口にしてしまった。残されていた最後の柱を叩き折るような、決定的な一言を。それが『その人』の心を折るには、十分すぎるトドメになってしまったのだと思う。

     ロゴのリニューアルと、ブランドの公式キャラクターの開発に、桜木たち従業員の意見が入り込む隙は、ほとんどなかった。

     社長と鈴木さんの経営陣二人を中心に話が進められており、こうなると、否定的な意見をすることは虎の尾を踏むような愚行だ。何か意見を言えば熱と冷の挟み撃ちで、人の心を知らない二人の、感情論を振りかざした強権に、いとも簡単に圧殺されてしまうのが目に見える。

     けれど、時折共有される進捗を見るたびに、桜木の胸には徐々に不安が募っていった。デザイナーの視点で一つ挙げるならば、後々の商品開発を見据えた仕様の考慮が全くなされていない、といった具合だ。現場での実務をほとんど理解しないまま成り上がった二人だから、そうなって当然だった。

     さらに、年齢的に若者のカルチャーやトレンドに疎い二人が「これを出せば売れるはずだ」と盲信しているのが、分かりやすいほど見え透いていた。世間の感覚と著しくズレたそのデザインは、率直に言って、全く可愛くなかった。

     桜木は、このプロジェクトのキックオフが開かれた数日後、『その人』と一緒に角が立たないよう、経営陣に遠回しに不満を伝えてみたことがある。けれど、冷ややかな視線を向けられただけで、その微かな抵抗はあっけなく霧散した。触りだけ伝えた瞬間に激昂を予感し、すぐに言葉を飲み込んだのだ。

     そこで宿ってしまった諦念は、桜木の思考を別の方向へと向かわせた。いっそ一度手痛い失敗を経験させた方が、経営の二人も目を覚ますのではないか、と。最悪このプロジェクトが上手くいかなかったとしても、自分はどこでも生きていける。泥舟と一蓮托生になるつもりなど毛頭なく、他でキャリアを築けるだけの余裕もあった。

     けれど『その人』は、そう割り切って妥協ができる人ではなかった。それどころか、プロジェクトをどうしても成功させたいと、桜木以外のメンバーからあがった懸念まで取りまとめ、矢面に立って経営陣へプレゼンをすると張り切っていた。その実直さが、桜木にはひどく危ういものに思えた。

     オフサイトの前日、桜木は社長に呼び出され、釘を刺された。

    「コアメンバーに満場一致で承認されたという事実を作り、従業員全体に展開したい。オフサイトがその場だ」

     本当にブランドのためを思って動いている『その人』の顔を思い浮かべると、心が痛んだ。けれど、もし言う通りに従えば、激務である商品部にデザイナーの人員を補充し、破格のボーナスも出すという社長の口約束は、桜木が寝返るには十分すぎる条件だった。

     迎えた当日の会議の席で、やはり『その人』はプロジェクトの致命的な欠陥と回避策を必死に訴え、同調を募ろうと桜木に視線を向けた。けれど、目線を振られた桜木が示したのは、『その人』の望むような賛同の姿勢ではなかった。その沈黙と拒絶が、一瞬で『その人』を孤立させたのは、明らかだった。

    「ごめん、話しかけないで。巻き込まないでくれる……?」

     会議が終わった直後、何かを言いたげに歩み寄ってきた目の前の『その人』に、桜木は、その冷徹な一言を言い放った。

     なぜ、追い詰められていた『その人』に対して、あんなに鋭利な言葉を平然と口にしてしまったのか、自分でも分からない。出る杭は打たれる。高校生の時に自分がされて辛かった状況を、今の自分は平気で『その人』に強いてしまったのだと自覚する。自分の利益を守るために、簡単に他人を裏切り、異物として排除してしまうことが、自分にもできてしまった。

     結局のところ、自分は他人との正しい距離感が、とうの昔に分からなくなっていたのかもしれない。他者と離れすぎれば孤独の寒さに凍え、かと言って近づいたところで、ただ支え合うようなこともできない。そんな不器用な歪みを抱えたままだから、人を裏切る自分の行動の愚かさも、その言葉の鋭利さすらも、分からなくなっていたのだ。

     喫煙所にいたはずの桜木は、気がつくと、鏡の前に立っていた。

     そこに反射する自分と、じっと目を合わせている。

     すべてを飲み込んでしまうような漆黒だと思っていた黒い壁は、いつの間にか滑らかな鏡面へと姿を変え、冷ややかに彼女の姿を反射していた。

     そして桜木は、そこに映る自分の背後、黒い壁の向こうに、『その人』の気配を明確に捉えた。

    (しー……)

     囁きともつかないその音に、桜木は絶句する。

     壁に反射して映る自分には、あるべきはずの口がなかった。謝らなければいけない。今度こそ、正しい言葉をかけなきゃいけない。そう思って必死に顎を動かそうともがくが、滑らかな皮膚が広がるばかりで、声が出ない。何も、話せない。

     言葉を奪われた桜木は、吸い寄せられるように、その黒い壁へと歩み寄った。けれど、いくら足を前に進めても、壁との距離は一向に縮まらない。距離感が分からない。どこよりも近くに見えて、どこまでも遠くに感じる。

     遠近感を失った桜木は、足元が途切れていることに、最後まで気がつけなかった。刹那。一歩、踏み外した。

     世界がひっくり返ったかと思うと、重力に引かれるまま、体を強く打ち付けながら、どんどんと滑落していく。

     どこまでも、どこまでも、落ちていく。

     暗闇の底から響いてくるのは、階段に体を打ちつける、鈍い無機質な音だけだった。

     そこには、肯定も、否定も、悲鳴も、告白も、一切何も届かない。

     声という概念そのものが、最初から存在しなかったように。


    <次の話>


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    #0 「苦難の会社員」 あらすじ・プロローグ
    #1 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #2 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #3 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #4 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #5 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #6 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #7 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #8 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #9 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #10 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #11 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #12 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #13 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #14 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #15 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
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    #17 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #18 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #19 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #20 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
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    #23 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
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    #25 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #26 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #27 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #28 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #29 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #30 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #31 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #32 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #33 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #34 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #35 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #36 「苦難の会社員」 エピローグ

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