
#2 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#2 第一章 午前九時の空
自動販売機の取り出し口に、ガタゴトと音を立てて、ホットの缶コーヒーが落ちてくる。町田拓実はそれを拾い上げ、今日も変わらないルーティンをなぞりながら、一日を始めようとしていた。
勤務先のオフィスビルの一階。エレベーターホールの脇にあるこの自動販売機に、どれほど世話になってきたか分からない。ここでコーヒーを買ってからエレベーターに乗り込む。それが、いつからか町田にとって、仕事のスイッチを入れる合図になっていた。
この会社に新卒で入社し、デジタル部のエンジニアとして勤め始めてから、もう七年が経とうとしている。長いような、あっという間だったような、曖昧な年月だ。熱意があったわけではない。辞める理由も特にない。気づけば、ここまで続いていた。
大抵の人はアパレル企業のエンジニアと聞けば、画面に向かってコードをガシガシと書き、WEBサイトの運用保守に追われる姿を想像するのかもしれない。けれど、この会社での町田の役割は、そこに留まらなかった。一言で言えば、基本的なパソコン操作すらおぼつかない社員が多すぎるのだ。結果、気づけば誰かしらの席に呼び出されており、まるで臨時のパソコン教室のようなことを始める羽目になる。
エレベーターに乗ろうとしたところで、その『生徒』が一人、向こうから血相を変えて走ってくるのが見えた。
「町田くん! 待って、待って! 私も乗るから!」
商品部でデザイナーの桜木麻衣が、大きなトートバッグの口に何枚ものカラーサンプルを覗かせながら、こちらに向かって猛ダッシュで駆けてくるところだった。
「別に、そんなに急がなくても良いでしょ」
「いや、乗れなかったら損した気になるじゃん? エレベーター占いだよ」
彼女の耳元で、イヤリングがシャラリと上品な音を立てた。高級そうなコートの深いアースカラーに、大ぶりの金色がよく映える。桜木はデザイナーだけあって、普段からよく分からない感性をしているが──やはり洒落ているな、とは思う。
「何? 私の服に何か付いてる?」
桜木は、エレベーターの鏡に映る町田の淡白な視線に、不満げに頬を膨らませてみせた。
「いや。今日も派手だなと思って」
「ねえ。それ、褒めてないでしょ? お洒落って言って」
町田は、彼女の洒落た身なりとむくれた顔を交互に見比べ、掛けていた黒縁の眼鏡をくいと持ち上げた後、小さく苦笑した。
「さすが、お洒落です」
「ふふん、デザイナーですから」
言わせておいて、絵に描いたようなドヤ顔である。今日の装いが気に入っているからか、朝の気だるさなど微塵も感じさせない堂々とした面持ちは、ウインクでもしかねない勢いだった。
エレベーターが、二十階に到着する。
「俺、煙草吸ってから行くわ。デザイナーは禁止されてるんだっけ?」
「甘いね町田くん。まだ就業前ですよ」
「屁理屈が上手いねー」
「一緒に吸えて嬉しいくせに。ほら、行こ」
桜木は悪戯っぽい笑みを浮かべ、バッグの奥から、派手に装飾された加熱式タバコを引っ張り出してみせた。それから、ワンピースの裾をひらりと翻し、迷いのない足取りで喫煙所へと歩き出す。
徹底して自分のルーティンを守ろうとする町田に対して、彼女はその時々のマイルールで、いつだって日常を軽やかに乗りこなす。
缶コーヒーを相棒に、一人で静かに煙草を吸うはずだった町田の几帳面な朝の流れは、桜木の鮮やかな乱入によって、見事なまでに崩されてしまった。
二人で無人の喫煙所に入ると、小さな空間には、染み付いたニコチンの匂いと冷え切った空気が淀んでいた。壁のヤニ汚れが、蛍光灯の白い光の下で鈍く飴色に沈んでいる。
「紙巻き勢の残り香やばぁ。昨日遅くまでやってたな、こりゃ」
桜木は眉をひそめてそう言いながら、手慣れた仕草で派手な加熱式タバコにスティックを差し込む。
「最近この喫煙所、缶ビール持ち寄った奴らの立ち呑み屋みたいになってるもん」
返事をしながら、町田も自分の地味なデバイスを準備する。
まもなく、じわりと熱を持ち始めた機械を口元へ運ぶと、二人は同時に白い煙を吐き出した。加熱式ならではの甘酸っぱく香ばしい匂いが、ふわりと混ざり合う。
「町田くんってさ、この会社入って何年目?」
「新卒で入って、七年くらいかな」
「え、先輩じゃん。私、中途入社だけど五年目くらいだよ」
「へー、意外とそうなんだ」
桜木とこんな風にゆっくり話をするのは、かなり久しぶりだ。商品部とデジタル部はほとんど没交渉だし、会話すると言っても、パソコンのお悩み相談を聞く時くらいだった。
「町田先輩、相変わらず、黒縁の眼鏡が似合っててカッコいいですよ」
「先輩はやめろよ」
「あ、眼鏡似合ってるのは否定しないんだ」
「似合ってるでしょ」
彼女が町田に妙に懐き、ズケズケと踏み込んでくるのは、仕事上の付き合いがそれほど必要ないからなのだろうと思う。互いに余計な気遣いが要らない距離感が、どちらにとっても居心地が良かったのかもしれない。
「あ、そういえば私と同期なのは、藤牧くんかな。営業部の」
桜木が天井を見上げながら、思いついたように呟いた。
「藤牧か。二人してアナログ人間の筆頭じゃん」
「うるさいわね。人には得手不得手があるのです」
その時、喫煙所のドアががらりと開く音がした。噂をすれば、営業部のアナログ人間。藤牧だった。
「あれ、桜木と町田。来てたの? まだ誰もいないと思ってた」
藤牧は目を丸くしながら敷居を跨ぐ。
「あ、噂をすれば藤牧くん、おはよー。今、秘密のデート中だよ」
「違います」
町田が即座に否定すると、桜木はケラケラと笑った。それにしても、珍しい面子が集まったものだ。
「みんな早いね。まだ八時でしょ」
町田は疑問を口にする。普段はこの時間に出社するような顔ぶれではなかった。自分はたまたまWEBページのリリース作業を控えているから早く出社したのだが、他の二人はどうしたものか。
「美智に資料見ろって頼まれてさ。最近やる気満々なのよ、あいつ」
藤牧は参ったという風に首を竦めたが、その顔は、どこか嬉しそうに見える。
「藤牧くんがとっても可愛がってる、黒髪ぱっつんの子か。私は仕様書の作成が溜まっててさー、仕方なく早起き」
桜木は藤牧の顔を覗き込んで唇に弧を描いた後、げんなりとしたため息を吐いた。三者三様に、忙しく仕事に追われているようだ。
「俺と美智以外には、経理の遠山さんしか来てなかったよ」
「あ、静香ちゃんね。あの子真面目で、いつも早くて偉いよね」
藤牧の言葉に、桜木は白煙をふうっと吐き出しながら、我が事のように誇らしげに頷いた。機械音痴の上に数字も苦手らしい桜木が、経理の遠山さんにどれほどおんぶに抱っこの状態であるのか、想像に難くない。
「てか、藤牧って紙巻きじゃなかった? 加熱式にした?」
町田は、藤牧が持っていた細身のデバイスに目を留める。
「最近の営業先、うるさいところが多いのよ。美智にも紙巻きは臭いってストレートに嫌な顔されたから、これを機に乗り換えたわ」
藤牧は少し決まり悪そうに頭を掻いた。すると桜木が、すかさずニヤニヤと笑みを浮かべる。面白いおもちゃを見つけた子どものように身を乗り出して、藤牧の顔を覗き込んだ。
「へえ。美智ちゃんの一言は、効くんだ。素直でよろしいね」
「うるさいな」
桜木と藤牧のどうでもいいやり取りを眺めているうちに、町田の加熱式タバコのデバイスは、終了の振動を伝えてきた。
「じゃ、俺はそろそろ行きますわ」
賑やかな朝の乱入者のせいで、煙草を味わった気がまるでしない。少しだけ物足りなさを感じたが、町田は小さく息を吐き出し、デバイスをポケットに仕舞った。
町田のルーティンは、今や完全に崩れ去っている。けれど、こんな風に遠慮なく引っ掻き回されるのも、たまには悪くないのかもしれない。
不思議と今日だけは、そんな風に思えていた。
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#0 「苦難の会社員」 あらすじ・プロローグ
#1 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#2 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#3 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#4 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#5 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#6 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#7 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#8 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#9 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#10 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#11 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#12 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
#13 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#14 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#15 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#16 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#17 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#18 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#19 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#20 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#21 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#22 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#23 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#24 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#25 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#26 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#27 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#28 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#29 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#30 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#31 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#32 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#33 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#34 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#35 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
#36 「苦難の会社員」 エピローグ