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#20 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶

    #20 第二章 罪の記憶


     目を覚ましたのは、しんと静まり返った、十九階のショールームだった。

     周囲に人の気配はない。他の男性陣はとっくに起き出して、上のフロアで動き始めているらしかった。

     髙野涼太は、その気配や物音にすら一切気づかないほど、自分が泥のように眠りこけていたのだと自覚する。

     全員で起床時間を決めていたわけではなかったけれど、場所がオフィスだということもあってか、まるで重要な会議に遅刻したかのような嫌な後ろめたさが、胸をよぎった。

     居心地の悪さを振り払うように身支度を整えてから、二十階の執務室へと向かうと、そこにいる全員が輪になって、慌ただしく言葉を交わしているのが見えた。

    「おはよう……!」

     髙野の姿を確認するなり、山﨑が弾かれたように駆け寄ってくる。

    「ごめん、寝過ごした。……何かあったの?」

     頭を掻きながら呑気に尋ねる髙野に、山﨑は不安げな表情を浮かべ、声をさらに低くした。

    「社長と副社長が、二人とも消えた」
    「え……?」

     髙野は、山﨑の言葉に目を丸くする。

     吉報として喜んでいいのか、あるいは危機感を覚えるべきなのか、反応を選べなかった。一体、何が始まったというのか。すぐには事態を飲み込めず、髙野はただ呆然と立ち尽くす。

     混乱する髙野を置き去りにして、藤牧さんが腕を組みながら声を発した。

    「十九階にある黒い壁に、二人の名前が浮かび上がってた。会議室のモニター画面に出てきた文字と同じ雰囲気だったよ」

     その言葉を受けて、桜木さんがおずおずと口を開いた。不安を打ち消そうとしているのか、少し早口になっている。

    「それって……じゃあ、あの黒い壁の向こうに、二人は出られたってことじゃない? ここから抜け出せたんだよ、きっと」
    「桜木の言う通り、そう考えるのが自然だろうね」

     そこに、町田さんが淡々と冷静なトーンで会話に割って入った。

    「俺も見たけど、黒い壁の文字の様子から見て、あのモニターを映したホストの仕業なのは間違いない。あの二人は、この空間から出るための条件を、一足先に満たしたんじゃないかな」

     町田さんはそこで一度言葉を切り、辺りをゆっくりと見回した。

    「あと、これは確証があるわけじゃないけど。無事に脱出できたということは、少なくともあの二人は『存在しないはずの社員』ではなかった」

     その瞬間、執務室の空気がピキリと凍りついたのを感じた。誰からともなく、互いの顔を探るような視線で見つめ合う。

    「幽霊、あの二人じゃなかったんだ」

     山﨑は足元を見つめたまま、胸の奥に溜まっていた息を、そっと吐き出すように呟いた。

     あの二人が違うのならば、幽霊は、一体誰なのだろうか。髙野には、この中の誰かがすでに死んでいるという事実など、想像も付かなかった。もちろん、それがあの二人だとしても、考えは同じなのだけれど。

    「あのさ、考えたところで分からないし、とりあえず朝ごはんにしない?」

     重たい空気を察して、思考を切り替えるように、町田さんがそう提案した。見渡すと皆、その言葉を拒むことなく、小さく頷いている。

     その様子を眺めながら、髙野は少しの変化を感じ取っていた。不安と猜疑が滲み、空気の重い状況は昨日と同じだったけれど、どこか少しだけ弛緩している。経営の二人がいなくなったことで、張り詰めていた重苦しいプレッシャーの底が、ほんの少しだけ抜けたようだった。

     質素な朝食を終えた面々は、再び散り散りになり、当てもなく時間を持て余し始める。

     忙殺されていた日々が嘘のように、ここでは何もすることがなかった。あくせくと働き詰めていた場所で、ただ時間を持て余しているという矛盾した状況に、髙野はなんとも言えない居心地の悪さを感じてしまう。

     壁の時計が午前九時を指したまま微動だにしないこの空間では、ストップウォッチのデジタル数字だけが、唯一の指標だ。それによると、計測し始めてから、すでに二十時間以上が経過しているらしかった。

     髙野は立ち上がり、エレベーターホールの奥にある男子トイレへと向かった。用を足し終えて、顔でも洗おうと洗面台の鏡に向かい立つと、そこに映る自分の顔には、生気がまるで宿っていなかった。

     思えば、一昨日の無茶な深酒と、昨日の唐突な監禁劇。まだ数日程度の出来事であるとはいえ、心身が悲鳴をあげるのは当然の帰結だろう。

     そのやつれ果てた自分の姿を見つめているうちに、張り詰めていた何かの糸が、ふっと切れたようだった。泥のように眠ったはずなのに、恐ろしいほどの疲労感が一気に押し寄せてくる。

     洗面台の縁を両手で掴み、必死に耐えようとしたけれど、まるで唐突に重力が増したかのように、抗いようもなく身体が沈み込んでいくのを感じた。

     視界がぐにゃりと歪み、睡魔の渦に引きずり込まれるように、髙野の意識は、急速に遠のいていく。

     誰もいない化粧室には、滔々と流れる水の音だけが、虚しく響き渡った。


    <次の話>


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    #0 「苦難の会社員」 あらすじ・プロローグ
    #1 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #2 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #3 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
    #4 「苦難の会社員」 第一章 午前九時の空
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    #26 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
    #27 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #28 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #29 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #30 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #31 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #32 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #33 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #34 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #35 「苦難の会社員」 第三章 苦難のしもべ
    #36 「苦難の会社員」 エピローグ

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