
#21 「苦難の会社員」 第二章 罪の記憶
#21 第二章 罪の記憶
髙野の両親は、地元では評判のいい青果店を経営していた。
社長兼店長として威勢よく店を仕切る父親と、事務方として裏で夫を支える母親。
髙野青果店は、こぢんまりとした家族経営の田舎企業だったけれど、堅実な経営で地域の人々の信頼をコツコツと積み重ねていた。
決して裕福な家庭ではない。それでも、両親はたまに、ささやかな贅沢をさせてくれた。年に一度、少し奮発して国内の温泉街へ家族旅行に出かけるのが我が家の恒例行事で、中学生だった髙野にとっては、それが何よりの楽しみだった。
家業の性質上、外食の思い出はほとんどなかったけれど、売れ残りの品を魔法のように美味しく変えてくれる母親の手料理を、髙野は心の底から自慢に思った。
父親はとても不器用で、仕事には妥協を許さない、頑固一徹な男だった。それでも、店を忙しなく切り盛りする合間、どこか照れくさそうに声をかけてくれる姿には、いつも優しさが滲み出ていて、そこが髙野は大好きだった。
そんな家族の穏やかな日常に暗雲が垂れ込めたのは、髙野が中学三年生の時。地元に大型のショッピングモールが進出してきてからのことだ。バイパス沿いに現れた巨大な競合に、髙野青果店の客足は、またたく間に遠のいていった。
目に見えて売上は低迷し、経営は、どんどん苦しくなった。威勢の良かった父親の背中は日を追うごとに小さくなり、母親は夜遅くまで電卓の前にへばりついて、溜息を吐く毎日が続いた。楽しみにしていた年一回の家族旅行も、当然のように打ち切られた。
結局、時代の波には勝てず、髙野が高校に上がって間もない頃、店は自主廃業という形で幕を閉じた。家も土地も手放した。父は運送会社で一から雇われの身として働き、母もパートを掛け持ちして、髙野を大学まで出してくれた。
店を、会社を必死に守ろうと、血の滲むような思いで足掻いていた両親の背中。それがダメになってしまった後も、家族を守ろうとなりふり構わず、頭を下げて別の仕事にしがみつき、泥臭く働き続けてくれた逞しい姿。
子供ながらにその壮絶さを痛いほど肌で感じていたからこそ、髙野は、両親の前で絶対に笑顔を絶やさなかった。
あのオフサイトの数日前──。
『その人』は、あの頃の両親と同じ目をしていた。仕切りなどない執務室の中では、誰がどんな表情で仕事をしているのか、嫌でもすべてが視界に入ってしまう。
仕事に妥協など一切なく、純粋に、そして危ういほどまっすぐに、会社のために身を粉にして働き詰めていることが、その横顔から痛いほど見て取れた。
「……無理してない? 大丈夫?」
髙野は努めて笑顔を作り、デスクでパソコンにしがみついている『その人』に声をかけた。
振り返って返事をする『その人』の顔は、やはり疲れからなのか、どこか血の気が引いている。笑顔でこちらを向いてくれてはいるけれど、か細く返された声には、感情の機微が一切感じられなかった。
『その人』が、オフサイトに向けて参加メンバーの意見も踏まえ、プロジェクトに潜むリスクとその軌道修正案を資料にまとめていることは知っていた。数人でその準備を進めているようだったけれど、それが佳境に差し掛かっており、かなり働き詰めているらしい。
髙野も、元々リブランディングのプロジェクトには不満があったので、その進捗を聞きながら、迷うことなく当日は自分も全力でバックアップすると約束した。
それを聞いた『その人』は、救いの手を見つけたかのように、ほっと息を吐いて、安堵するように微笑んだ。一人でも多く提案を支持してくれる人が増えたことが、相当心強かったようだ。けれどオフサイトの当日、その温かな信頼は、最悪の形で破局を迎えることになる。
当日の朝、本社のオフィスに集合してから、オフサイト会場へ向かうバスに乗り込む、その直前のことだった。髙野は前触れもなく、松本社長に呼び出された。周囲に他の社員がいないのを見計らったかのような、あまりに絶妙なタイミングだった。
「今のプロジェクトの方向性やスケジュールに反対する動きがあるのを知ってるか?」
淡々と口を開いた社長の言葉に、髙野は思わず息を詰まらせた。
昨晩『その人』と交わした約束が何度も脳裏をよぎったが、動揺を悟られまいと、奥歯をぐっと噛み締める。
「いえ……」
乾いた声で答えるのが精一杯だった。その反応を確認した松本社長は、髙野の肩を親しげに、だが逃がさないように強く掴んだ。
「髙野くん、君がコントロールするんだ。反対意見を、うまくねじ伏せてほしい。今回のオフサイトでそれができれば、すぐに大幅な昇給を約束する」
それは、実質的に『その人』の梯子を外せという命令だった。昨晩、全力でバックアップするという約束をしたばかりだというのに、出発を前にして、髙野は選択を迫られた。
毎月、自分の給与から削り出すようにして、髙野は実家へ仕送りを続けていた。もし、社長の言う通りに立ち回れば、経済的に苦しい両親を、もっと楽にさせてやれるかもしれない。そんな、大義名分を盾にした卑しい誘惑が、一瞬にして頭をかすめた。
泥をかぶる覚悟で会社のために尽くしていた人。一度は助けると約束した人。誰よりも真っ直ぐで、そして自分を心から信じ切ってくれていた『その人』の顔が、髙野の脳裏に浮かぶ。
けれど、一度こぼれ落ちた卑しい思考は、もう止められなかった。目の前にぶら下げられた利益の前には、約束は霞んでしまった。自分には守るべき家族がいる、これは仕方のないことなんだと、都合のいい言い訳が、胸を埋め尽くした。
髙野は、その取引に応じた。
社長の意図通りに立ち回り、任されたことを完璧に全うしてのけた。それが『その人』を、のちに誰もが目を背けたくなるような凄惨な結末へと引きずり込む引き金になるとは、知る由もなかった。
髙野は、裏切った。
ふと気がつくと、髙野の目の前には、すべてを拒絶するような、底知れない黒い壁があった。
その壁に立てかけられた、不安定な一本の梯子。髙野はその途中にしがみつき、身体を固めて立ち尽くしている。
見下ろすと、足がすくんだ。これから自分の身に何が起きるのか、本能でハッキリと理解していた。
(あなたは、裏切った)
鼓膜のすぐ傍で、冷え切った『その人』の声が聞こえる。その瞬間、目の前の黒い壁が、煙のようにふわりと掻き消えた。
支えを失った梯子は、生々しい破壊音を立てながら、なす術もなく階段の下へと倒れ落ちる。
宙に投げ出された髙野の体は、一切の光も届かない暗闇へ、速度を増しながら沈んでいく。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
その言葉は、まるで擦り切れたレコードの針が同じ溝をなぞるようにして、髙野の唇から、繰り返し何度もこぼれ落ちた。
思考は停止し、ただ脳裏に刻まれた罪の自覚だけが、操り人形の糸のように、口元を動かし続けている。
階段の上に立つ『その人』は、落ちていく髙野をじっと見つめていた。
目には深い翳りが落ちていて、憎しみとも、深い悲しみともつかない大粒の涙が、痛々しくきらめいている。
その一滴が、暗闇の中を落ちる髙野を追いかけた。大粒の雫が、暗闇を切り裂きながら、真っ直ぐに降下していく。
遂に追いついたその雫は、まるで消えない烙印を押すかのようにして、髙野の頬に冷たい感触をともないながら、ぴとりと静かに張り付いた。
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#0 「苦難の会社員」あらすじ・プロローグ
#1 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#2 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#3 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#4 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#5 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#6 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
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#10 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#11 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#12 「苦難の会社員」第一章午前九時の空
#13 「苦難の会社員」第二章罪の記憶
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#27 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#28 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#29 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#30 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#31 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#32 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#33 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#34 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#35 「苦難の会社員」第三章苦難のしもべ
#36 「苦難の会社員」エピローグ