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本能寺の変1582 【四国問題】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【四国問題】

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    【四国問題】 八 九 十 目次 【四国問題 概要】 八 九 十
     【粛清 佐久間信盛】 【足蹴事件】
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    →【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
    →その一因 目次大 概説大 目次中 →
     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
    →【人物】
     【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 【重史146】
    →【ここがポイント!!】
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 250720

    永禄六年1563

    【重史122】 第143話 石谷頼辰・光政       永禄06 1563005**
      光源院殿御代、当参衆、並びに、足軽衆以下覚え、
                        「永禄六年諸役人附」前半部分

    永禄十二年1569

    【重史125】 そ第11話㊴ 石谷頼辰        永禄12 156900713
      ①奉公衆、石谷兵部少輔、牢人、
      ②小笠原又六、下向、四里北に居らるゝのところへ、
      ③杉原与七郎、近所に於いて、生害なり、
                                「言継卿記」

    天正三年1575

    【重史182】                 公 天正03 157500406
      ①四月六日、信長、京都より直ちに南方へ御馬を出だされ、
      ②四月八日、三好笑岩(康長)楯籠る高屋へ取り懸け、
      ③四月十四日、大坂へ取り寄り、作毛を悉く薙ぎ捨て、
      ④御人数、十万余騎のつもりなり。
      ⑤都鄙の貴賤、皆耳目を驚かすばかりなり。
                                『信長公記』

    【重史183】                 ✓ 天正03 157500412
      ①同卯月十二日朝、友閑 長谷川宗仁
      ②一、小長板ニふとん・しがらき、二ツ置く、
                              「天王寺屋会記」

    4月19日 【重史184】           公 天正03 157500419

      ①高屋に楯籠る三好笑岩、
      ②友閑を以て、御侘言(わびごと)、御赦免候ひしなり。
                                『信長公記』

    7月1日
    三好康長、相国寺に出仕。
                                『信長公記』

    10月21日
    三好康長、三日月の葉茶壷進上。
                                『信長公記』

    天正四年1576

    4月14日
    三好康長、大坂攻めに参陣。

                                『信長公記』

    5月3日
    織田軍、総崩れ。

                                『信長公記』

    天正六年1578

    【重史179】                  ✓ 天正06 157801026
      ①惟任日向守に対する書状、披見せしめ候、
      ②阿州面(おもて)に在陣、尤(もっと)もに候、
      ③次に、字(あざな)の儀、信を遣はし候、
      ④即ち、信親、然るべく候、
                              「土佐国蠧簡集」

    【重史180】                  ✓ 天正06 157801026
      ①御奏者は、明智殿なり、
      ②明智殿御内、齋藤内蔵助は、元親卿には小舅になるなり、
      ③則ち、信と云う御字を給わる、
      ④これに依り、信親と云しなり、
      ⑤此の由緒を以って、
      ⑥四国の儀は、元親、手柄次第に、切り取り候へと、
      ⑦御朱印頂戴したり、
                                 「元親記」

    天正八年1580

    閏3月7日 【重史219】           公 天正08 158010307
    本願寺が降伏した。

      ①さる程に、大坂(石山本願寺)退城仕るべきの旨、
      ②忝くも、禁中より御勅使なされ、
      ③御勅使、近衛殿・勧修寺殿・庭田殿、
      ④幷びに、宮内卿法印・佐久間右衛門等へ御請けを申し、
      ⑤来たる七月廿日以前に、大坂退散に相定め、
      ⑥閏三月七日、誓紙の筆本見申され候なり。
                                『信長公記』

    4月9日 【重史220】            公 天正08 158010409
    顕如が、石山の地を去った(雑賀へ)。

      ①四月九日、大坂退出の次第、
      ②門跡より新門跡かたへ相渡さるべきの旨、
      ③雑賀・淡路島の者ども、爰を取り離れ候ては、迷惑と存知、
      ④新門跡を取り立て候はんの間、
      ⑤若門跡、此の儀に同事、
      ⑥本門跡、雑賀より迎へ舟を乞ひ、四月九日、大坂を退出。
                               『信長公記』

    4月24日 【重史223】          公 天正08 158010424
    秀吉は、播磨と但馬、二ヶ国の平定に成功した。

      ①四月廿四日、播州の内しそ郡に、
      ②此の競ひを以て、阿賀へ取り懸けられ候ところ、
      ③姫路に、羽柴筑前守秀吉、在城あるべく、普請申し付け、
      ④羽柴筑前守、舎弟 木下小一郎、但馬国へ乱入、
      ⑤信長公の御威光、忝き御事なり。
      ⑥両国、平均に候ヘキ。
      ⑦都鄙の面目、後代の名誉、これに過ぐべからず。
                               『信長公記』

    秀吉の名は、周辺諸国へ鳴り響いた。
    秀吉は、これを巧みに利用する。
    すなわち、「調略」・・・・・。 

    秀吉は、ようやく、光秀に追いついた。
    ここから、である。
    秀吉の快進撃が始まった。

    6月6日 【重史224】            公 天正08 158010606
    秀吉は、因幡・伯耆の国境まで進出した。

      ①播州しそ郡に楯籠る宇野民部、六月五日、夜中に退散。
      ②六月六日、因幡・伯耆両国境目に至りて相働き、
      ③馳せ向ふべき行(てだて)は、一切にこれなく、
      ④国端の城主、縁々を以て、降参の御断り申し、
      ⑤羽柴筑前守秀吉、条々(数々の手柄)、名誉の旨、
      ⑥信長公、御感なされ候ひキ。
                               『信長公記』
    信長の勢威、恐るべし。
    戦わずして、勝つ。
    秀吉は、光秀に、一歩先んじた。

    6月12日 【重史152】           ✓ 天正08 158010612
    信長は、長宗我部元親に、三好との和睦を命じた。
    すなわち、停戦命令。
    信長は、元親との戦いを望んではいない。

      ①三好式部少輔の事、此方(こなた)に別心なく候、
      ②猶、三好山城守(康長)、申すべく候也、
                      「古証文」「織田信長文書の研究」

    信長は、元親の拡大戦略に歯止めをかけた。
    元親の夢=「四国統一」は、否定された。

    信長は、絶対専制君主。
    誇り高い男。
    逆らう者は、容赦しない。         【信長の人物像】 信03 信09

    6月14日 【重史153】           ✓ 天正08 158010614
    三好康長から、長宗我部元親への、挨拶状である。
    信長は、元親に、「仲良くせよ」と言っている。    
    康長は、三好の新当主。    
    以後、この康長が、「阿波の儀」に関与する。 

      ①爾来(じらい=以来)、申し承らず候、
      ②仍って、阿刕(あしゅう=阿州)表の儀に就きて、
      ③信長より、朱印を以って、申され候、
                      「古証文」「織田信長文書の研究」

    6月26日 【重史154】           公 天正08 158010626
    織田と長宗我部は、友好関係にあった。

      ①土佐国補佐せしめ候長宗我部土佐守、
      ②惟任日向守、執奏にて、
      ③御鷹十六聯、幷(ならび)に砂糖三千斤、進上。
                                『信長公記』

    7月2日 【重史221】            公 天正08 158010702
    勅使とともに、本願寺(顕如)の使者が参上した。
    信長は、面会せず。

    代わりに、信忠が挨拶を受けた。

      ①大坂本門跡、三使を以て、七月二日、御礼。
      ②進物、御太刀代・銀子百枚。
      ③中将信忠卿へ御礼申す。
      ④信長公、御対面これなし。
      ⑤黄金三十枚、門跡へ。黄金二十枚、北方へ。
                                『信長公記』

    8月2日 【重史222】            公 天正08 158010802 
    本願寺、退城。
    多くの牢人たちが、阿波へ逃げ込んだ。

      ①さる程に、新門跡大坂渡し進(まいら)すべきの御請けなり。
      ②天正八年庚辰(かのえたつ)八月二日、新門跡、大坂退出の次第。
      ③抑(そもそ)も、大坂は、凡そ、日本一の境地なり。
      ④家門長久の処に、思はず、天魔の所為(しょい)来りて、
      ⑤爰に大坂立ち初めて以来、四十九年の春秋を送る事、
      ⑥信長公、御成りあつて、御見物なさるべく、其の意を存知、
      ⑦海上と陸と、蛛の子をちらすが如く、ちり々々に別れ候。
      ⑧余多の伽藍、一宇も残さず、夜日三日、黒雲となつて焼けぬ。
                               『信長公記』

    8月中頃 【重史163】          信✓公 天正08 1580008**
    戦いが終われば、粛清が始まる。

      ①爰(ここ)にて、佐久間右衛門かたへ、御折檻の条、
      ②御自筆にて、仰せ遣はさるゝ趣、
                             『信長公記』1~2/19

     〃 〃 【重史172】            公 天正08 1580008**
    斯くして、佐久間信盛の粛清は、完了した。
    用が済めば、粛清される。
    役に立たねば、粛清される。
    邪魔になれば、粛清される。
    このことが、光秀の脳裏から、離れない。

      ①抑(そもそ)も、天下を申しつくる信長に、
      ②口答申す輩(ともがら)、前代に始り候条、
                            『信長公記』末尾部分

    11月24日 【重史185】          ✓ 天正08 158011124
    元親は、秀吉とも連絡を取り合っていた。

      ①大坂を逃げ下る牢人ども、
      ②紀州(雑賀衆)・淡州(勢)相催し、
      ③阿州勝瑞へ渡られ、再籠に及び、
                              「吉田文書」3/8

     〃 〃   【重史187】          ✓ 天正08 158001124
    信長は、三好康長を四国(讃岐)へ出陣させるつもりでいた。

      三好山城守、近日、讃州安富館(雨滝城)に至り下国必定に候、
                              「吉田文書」6/8

     〃 〃   【重史188】          ✓ 天正08 158001124
    信長は、瀬戸内海の制海権を手に入れようとしていた。
    秀吉は、淡路島の野口長宗を調略した。
    元親は、淡路島に、野心があった。
    秀吉から、信長へ。
    信長は、元親の野心を知っていた。

      ①淡州野口(長宗)方の所来、
      ②此比、淡州の儀、如何、仰せ付けらるゝべく候、
      ③淡州の儀、仰せ下さるゝ次第、心懸け致すべく候哉、
                              「吉田文書」7/8

     〃 〃   【重史189】          ✓ 天正08 158001124
    斎藤利三が、元親と秀吉の間に立った。

      ①善悪の御助言、(秀吉に)頼み奉る外他無く候、
      ②斎藤内蔵助方まで、申し登せ候間、
      ③自然(じねん)の時は、貴意を得らるべく候、
                              「吉田文書」8/8

    12月25日 【重史186】          ✓ 天正08 158011225
    信長と元親の関係は、まだ、良好だった。

      ①大坂存分に属するに就きて、
      ②伊予鷂(ハイタカ)、五居(すえ)到来、
      ③隣国との干戈(かんか=戦い)の事、
      ④彼是(かれこれ)、惟任日向守、申すべく候也、
                              「土佐国蠧簡集」

    この年、光秀に、特に、目立った活躍はない。

    天正九年1581

    1月8日 【重史194】            ✓ 天正09 158100108
    松井友閑は、津田宗及を招き茶会を催した(安土)。

      正月八日朝、 安土に於いて宮法御会 宗訥 宗二 宗及
                            「天王寺屋会記」他

    1月10日 【重史197】           ✓ 天正09 158100110
    光秀、坂本にて、新年の茶会(津田宗及)。

      正月十日朝、 惟任日向守殿会  宗二 宗及
                            「天王寺屋会記」他

    1月23日
     【重史191】           ✓ 天正09 158100123
    信長は、京都で、盛大な馬揃えを執り行おうと考えた。

      ①正月廿三日、惟任日向守に仰せ付けられ、
      ②京都にて、御馬揃へなさるべきの間、
      ③御朱印を以て、御分国に御触れこれあり。
                                『信長公記』

     〃 〃   【重史192】           ✓ 天正09 158100123
    信長は、三好康長に、阿波への出陣を命じた。

      ①先度は、爆竹の諸道具こしらへ、
      ②然らば、重ねて、京にては、切々、馬を乗り遊ぶべく候、
      ③幾内の直奉公の者共、老若を出すべく候、
      ④其方(光秀)、請取り申し触るべく候、
      ⑤三好山城守(康長)、是れは、阿波へ遣はし候間、除くべく候、
      ⑥六十余州へ相聞ゆべく候の条、馬数多くしたて、
                                「士林証文」

    2月6日 【重史195】            ✓ 天正09 158100206
    三好康長が、堺の天王寺屋(津田宗及)を訪ねた。

      二月六日朝、 三好山城殿 一人
                            「天王寺屋会記」自

    2月10日 【重史196】           ✓ 天正09 158100210
    松井友閑が、天王寺屋を訪れた。

      二月十日朝、 宮内卿法印、御出で  雲(了雲)・叱(道叱)・訥(宗訥)
                            「天王寺屋会記」自

    2月28日 【重史200】           公 天正09 158100228
    「御馬揃への事」
     当日の様子である (1~6) 。

      ①二月廿八日、
      ②五畿内隣国の大名・小名・御家人を召し寄せられ、
      ③天下に於て、御馬揃へをなされ、
      ④聖王へ、御叡覧に備へられ訖んぬ。
      ⑤儀式の御結構、美々しき有様、筆にも、詞にも、述べがたく、
                              『信長公記』1/6

     〃 〃   【重史201】          公 天正09 158100228
    光秀は、先頭集団の三番目に登場した。

      ①一番に、惟住五郎左衛門尉(丹羽)長秀、
      ②二番、蜂屋兵庫頭、
      ③三番、惟任日向守、
      ④四番、村井作右衛門、
      ⑤御連枝の御衆。
      ⑥公家衆。
      ⑦御馬廻、御小姓衆。
      ⑧越前衆。
                              『信長公記』2/6

    3月5日 【重史202】           ✓ 天正09 158100305
    秀吉は、京都馬揃えに参加していない。

      ①今度、御馬揃の儀、夥敷(おびただしく)、相聞え申し候事、
      ②参上せしめず候段、無念に存ずる計(ばか)りに候、
      ③爰元、(姫路城の)普請等、漸(ようや)く出来候、
                               「富田文書」

    3月29日 【重史193】           ✓ 天正09 158100329
    秀吉、清水寺にて、松井友閑と酒宴に興ず。

      ①清水寺に於いて、羽柴筑前守・宮内卿法印・春長軒
      ②各、罷り向かい、酒宴、
      ③羽筑より、乱舞の衆へ、小袖一つ宛、遣わすと云々、
                                「兼見卿記」

    4月10日 【重史198】           公 天正09 158100410
    信長、竹生島参詣事件。

      ①信長、御小姓衆五、六人召し列れられ、竹生島御参詣。
      ②御帰り候て、御覧候へば、
      ③御城内は、行きあたり、もだえ焦(こが)れ、仰天限りなし。
      ④其の長老をも、同事に、御成敗候なり。
                                『信長公記』

    4月12日 【重史199】           ✓ 天正09 158100412
    光秀、天橋立を遊覧す(津田宗及を同道)。

      ①惟任日向守殿父子三人
      ②長岡兵部太夫殿父子三人
      ③紹巴 宗及 宗二 道是
      ④地蔵行平の太刀、与一郎殿より日向殿へ御進上候なり、
      ⑤かざり船にて、并びに橋立の文殊にて御振舞これあり、
      ⑥うふてる松は、千年のさなえ哉、 光秀
                            「天王寺屋会記」他

    5月4日 【重史203】           ✓ 天正09 158100504
    秀吉と松井友閑、天王寺屋にて茶会に興ず。
    秀吉は、二人との関係を強化していた。

      五月四日朝、 羽柴藤吉郎殿・宮内卿法印御坊、
                            「天王寺屋会記」自

    6月12日 【重史204】           ✓ 天正09 158100612
    秀吉、播州姫路にて、茶会を催す(津田宗及、参ず)。

      ①六月十二日朝、 羽柴藤吉郎殿御会、
      ②播州ヒメジにて、 宗及 備中屋一噌
                            「天王寺屋会記」他

    6月25日 【重史205】           公 天正09 158100625
    秀吉が、鳥取城攻めへ向かった。

      ①六月廿五日、羽柴筑前守秀吉、中国へ出勢。
      ②打ち立つ人数、二万余騎。
      ③即時に、とつとり(鳥取)を取りまかせ、
      ④海上には、警固舟をおき、浦々、焼き払ひ、
      ⑤数千挺の弓・鉄炮勝り出し、
                               『信長公記』

    8月13日 【重史214】           公 天正09 158100813
    秀吉は、信長と、頻繁に連絡を取り合っていた。
    毛利の本軍が、鳥取へ向かったらしい、との情報が入った。


      ①因幡国とつとり表に至りて、
      ②毛利・吉川・小早川、罷り出づべきの風説これあり。
      ③一左右次第、参陣いたすべき用意、
      ④永岡兵部大輔父子三人、惟任日向守、
      ⑤信長公、御馬を出だされ、悉く、討ち果たし、
      ⑥永岡・惟任両人は、大船に兵粮つませ、
                               『信長公記』

    秀吉の役目は、毛利の本軍を誘き出すこと。                            
    信長は、自ら、出陣するつもりだった。
    信長は、猜疑心のきわめて強い男。
    秀吉は、聡い男。
    そのことをよく心得ていた。 

    8月19日 【重史173】250817       ✓ 天正09 158100819
    佐久間信盛、十津川の湯にて、死す。

      ①佐久間(信盛)、十津川の湯にて、死ぬにつき、
      ②惟任日向守、郡山城普請見舞として、
                              「多聞院日記」

    8月20日 【重史215】          ✓ 天正09 158100820
    信長は、吉報を待っていた。
    秀吉は、信長の性格をよく知っていた。
    報告を欠かさない。

      ①鳥取面の事、
      ②彼の城中の下々、日々餓死に及び候旨、実儀なるべく候、
      ③惟任・長岡以下申し付け候、
      ④その方、一左右(いっそう)次第、出張すべく候、
      ⑤信長も、出馬すべく候条、
                               「沢田文書」
    信長は、毛利との決戦を期待していた。
    光秀は、その時ための切り札であった。
    手柄を上げる好機。
    なれど、ために身動きとれず。

    8月21日 【 重史 007 】250817       ✓ 天正09 158100821
    光秀は、妹の御ツマキ(妻木)を失った。

      ①惟任の妹の御ツマキ死におわんぬ、
      ②向州、比類なく、力を落とすなり、
                              「多聞院日記」

    9月8日 【重史206】           ✓ 天正09 158100908

    信長は、阿波北部への出兵を決めた。
    ならば、その前に・・・・・。
    どうしても、成さねばならぬことがあった。
    絶対必要条件。
    「淡路島」
    信長は、秀吉に、攻略を命じた。

    秀吉は、鳥取城攻めの真っ最中。
    兵を割く余裕は、ない。

    となれば、黒田官兵衛。
    秀吉は、官兵衛に、これらの下工作を命じた。

    鳥取は、時間の問題。
    なれど、まだ、先が見えず。
    「あと、一月」
    「否、二月」
    その間に・・・・・。

    秀吉は、淡路衆を阿波へ先行させようとしていた。

    その上で、本軍を。

      ①長宗我部方よりも申し分候へ共、返事に能わず候、
      ②勝瑞、いよいよ、堅固の由、尤もに候、
      ③阿州表の儀、重ねて、申し越され候、
      ④淡路衆、毎日、追々、渡海の旨、然るべく候、
                            「阿波国徴古雑抄」

    9月12日 【重史207】          ✓ 天正09 158100912
    秀吉は、黒田官兵衛に、阿波渡海の指揮を命じた。

      ①権兵衛に、阿(淡)州衆召し連れ、入城せしむべきの由、
      ②生甚・明与四は、自遁の城まで渡海せしむべく候、
      ③その方、早々、相越され、
      ④野孫五の城に在城候て、
                             「黒田家文書」50

    9月16日 【重史208】          ✓ 天正09 158100916
    志知城は、阿波渡海の作戦司令部。

      ①淡路へ渡海の儀、油断無き由、尤もに候、
      ②生甚、阿州へ相越すの旨に候条、
      ③其の方は、しちの城に在城候て、
      ④先々の儀、示し合わされ、行等の事、調儀専一に候、
                             「黒田家文書」51

    9月24日 【重史209】           ✓ 天正09 158100924
    黒田官兵衛が、志知城に入った。

      ①阿州、相残る人質ども、志智に至り、相越さるるの由、
      ②行の様子、委細、小西弥九郎に、書付を以って申し渡し候、
      ③讃州安富、人質召し連れ、親父相越され候、
                             「黒田家文書」52

    **** 【重史181】            ✓ 天正09 1581****
    信長は、元親の領地を土佐一国と阿波南半国に定めた。

      ①元親儀を、信長卿へ、或る人、さゝへ(妨害)申す、
      ②連々、天下のあだにも罷り成るべし、
      ③信長卿、御朱印の面、御違却有りて、
      ④予州・讃州、上表申し、
      ⑤阿波南郡半国、本国に相添え遣はさるべし
                                 「元親記」

    **** 【重史190】            ✓ 天正09 1581****
    元親は、信長の命を受け付けず。

      ①四国御儀は、某が手柄を以って、切り取り申す事に候、
      ②一圓、御請け申されず、
      ③明智殿より、石谷兵部少輔(頼辰)を御使者に下されたり、
      ④是れにも、御返事、申し切らるゝなり、
                                 「元親記」

    10月10日 【重史210】          ✓ 天正09 158101010
    阿波の木津・土佐泊へ。
    秀吉は、黒田官兵衛に、兵粮・玉薬の搬入を命じた。

    讃岐では、長宗我部の軍勢が撤退した。

      ①来島一書口上の趣聞き届け、委細申し遣わし候、
      ②木津・土佐泊兵粮の事、申し付け相渡し候、
      ③右両城玉薬の事、先度書き付け候分、これ又申し付け候、
      ④讃州表の事、敵引き退き候由、其分たるべく候、
                             「黒田家文書」53

    10月25日 【重史211】          公 天正09 158101025
    鳥取城、開城。

      ①因幡国とつ鳥一郡の男女、悉く、城中へ逃げ入り、楯籠り候。
      ②下々、百姓以下、長陣の覚悟なく候の間、即時に餓死に及ぶ。
      ③吉川式部少輔・森下・日本、三大将の頸を取り進らすべく候間
      ④残党、扶け出だされ候様にと、詫言、申し候、
      ⑤十月廿五日、取鳥籠城の者、扶(たす)け出ださる。
                               『信長公記』

    10月28日 【重史212】1/2        公 天正09 158101028
    吉川元春が、伯耆に進出した。
    秀吉、出陣。
    鳥取から、伯耆へ。
           →11月8日【重史212】2/2へつづく

    11月6日 【重史217】          ✓ 天正09 158101106
    姫路沖に、毛利の水軍が現れた。
    秀吉の水軍(小西行長)が、これを追い払った。

      ①敵の警固船二百艘計り、罷り上るの処、
      ②室より小西、安宅(船)乗り出し、
      ③宇喜多、煩(わずらい)、再発の由に候、
      ④藤吉郎、永々、在陣仕り候間、
                              「蜂須賀文書」

    11月8日  【重史212】2/2        公 天正09 158101108
    秀吉は、吉川元春に、攻め寄せる意思がないと判断した。
    秀吉は、姫路城へ帰った。

      
    ①伯耆国に、吉川、罷り出で、南条表取り巻くの由、注進候。
      ②羽柴筑前守、後巻に罷り立ち、
      ③因幡・伯耆の境目に、山中鹿之介弟 亀井新十郎(茲矩)、
      ④羽衣石・岩倉両城へ、兵粮・玉薬丈夫に入れおき、
      ⑤十一月八日、播州姫路に至りて帰陣。
      ⑥吉川元春も、曲なく、人数引き取り候ひキ。
                               『信長公記』

    11月17日 【重史178】           公 天正09 158101117
    秀吉は、淡路島の攻略に成功した。

      ①羽柴筑前・池田勝九郎両人、淡路島へ人数打ち越し、
      ②姫路に至りて、羽柴筑前守、帰陣。
      ③淡路島、物主(ものぬし)、未だ仰せつけられず候なり、
                                『信長公記』

    11月23日 【重史213】          ✓ 天正09 158101123
    信長は、三好康長に阿波(北部)・讃岐の平定を命じた。

      ①今度、淡州の儀、皆相済ませ申し候、
      ②阿・讃の儀、三好山城守、弥、仰せつけられ候、
      ③即時に、両国残さず一着候ように仰せ付けられるべく候、
      ④慥(たし)かに、申し届くべきの通り、 上意候間、
                               「志岐文書」

    11月26日 【重史218】          ✓ 天正09 158101126
    信長は、毛利水軍の切り崩しを図った。
    秀吉に、これを命ず。
    能島村上氏が、誼を通じて来た。

      ①弟鷹一居到来候、遠路懇情喜び入り候、
      ②十一月廿六日 信長(朱印) 村上掃部頭とのへ
                               「村上文書」

    信長の調略作戦が、着々と、進行してた。

    十二月後半 【重史216】           公 天正09 1581012**
    秀吉、安土に参着。
    秀吉は、得意の絶頂にあった。

      ①歳暮の御祝儀として、羽柴筑前守秀吉、播州より罷り上り、
      ②御小袖、数弐百、進上。
      ③其の外、女房衆かた、それぞれへ参らせられ、
      ④か様の結構、生便敷(おびただしき)様躰、古今承り及ばず、
      ⑤今度、因幡国取鳥、一国平均に申しつけらるゝ事、
      ⑥武勇の名誉、前代未聞の旨、御感状をなされ、
      ⑦信長公、御褒美として、御茶の湯道具、十二種御名物、
                               『信長公記』

    秀吉の活躍が、目立った。
    播磨・但馬・因幡・伯耆、そして、淡路島。

    信長との関係は、きわめて良好。
    秀吉は、一歩も二歩も先行した。
    その将来は、明るい。

    光秀に、特に、目立った活躍はない。
    光秀は、大きく水をあけられた。

    元親の問題が、重石になった。
    そして、もう一つ。
    毛利との決戦に備えて、待機せねばならなかった。
    ために、身動きならず。          【重史214】 【重史215】
    のみならず、妹御ツマキを失った、今。     【 重史 007 】250817
    信長とのコミュニケーションが、思うようにならず。
    等々。
    明智の将来は、暗い。 

    天正十年1582

    目次

    一月十一日 【重史174】           ✓ 天正10 158200111
    信長は、元親に朱印状を送った。

    信長は、己の命に従わぬ者を容赦しない。
    「阿波南郡半国」を取り止めた。
    元親には、「土佐一国」のみとした。


      ①空然(石谷光政) 人々御中
      ②尚々、御朱印の趣も、元親御ため、然るべく候、
      ③始末、然るべく様に、万事、御異見、尤もに、存じ候、
                               「石谷家文書」

     【参照】
        【重史181】 阿波南郡半国、本国に相添え遣はさるべし
        【重史213】 阿・讃の儀、三好山城守、弥、仰せつけられ候、
        【重史012】 其外両国の儀、信長、淡州に至って出馬の刻~
        【重史042】 ~うしきの城・仁宇南方、残らず明け退き申し候、

    二月一日 【重史046】            公 天正10 158200201
    木曾義昌が裏切った(武田→織田)。

    二月三日 【重史046】            公 天正10 158200203
    信長は、出陣命令を下した。
    「甲斐へ」
    攻め口は、四つ。

    信忠を総大将とする先陣部隊が出発した。

      ①二月朔日、信州、木曾義政御身方の色を立てられ候
      ②二月二日、武田四郎父子・典厩(武田信豊)、木曽謀叛の由承り、
      ③二月三日、信長公、諸口に出勢すべきの旨、仰せ出だされ、
      ④二月三日、三位中将信忠・森勝蔵・団平八、先陣として、
                               『信長公記』

    二月九日 【重史047】           公 天正10 158200209
    信長は、甲斐出陣にあたり、十一ヶ条の条書を発した(①~⑪) 。

    三好康長は、四国へ出陣すること。
    光秀は、出陣すること。


      ①二月九日、信長公、信濃国に至りて御動座なさるべきについて、
      ②三好山城守、四国へ出陣すべきの事。
      ③惟任日向守、出陣の用意すべき事。
                                『信長公記』

    三月五日 【重史034】           公 天正10 158200305
    信長は、安土を発った。

      三月五日、信長公、隣国の御人数を召し列れられ、御動座。
                                『信長公記』

    三月十一日 【重史170】           公 天正10 15600311
    武田勝頼の最期。

      ①三月十一日、武田四郎父子、簾中、一門、
      ②こがつこ(駒飼)の山中へ引籠らるゝの由、
      ③三月十一日、巳の刻、各、相伴、討死なり。
      ④四郎父子の頸、滝川左近かたより、三位中将信忠卿へ、
      ⑤関可平次・桑原助六両人にもたせ、信長公へ御進上候。
                                『信長公記』

    3月17日 【重史018】           ✓ 天正10 158200317
    信長は、己の勢威の強大さに驚いた。

      ①穴山、忠節を抽んずべきの条、朱印をなし、
      ②去る十一日四郎父子を討ち捕り、首到来候、
      ③典厩(信豊)の事、是も首到来、
      ④四郎の弟仁科五郎、是も首到来候、
      ⑤甲州の歴々の者ども、大略首を刎ね候、
      ⑥尾濃の浪人、土岐美濃守(頼芸)を始め、岩倉・犬山等、
      ⑦卅日・四十日際(きわ)に、一偏に属するの事、
       我ながら驚き入る計りに候、
                              「武家事紀」1/2

    信長は、絶対的な武力を手に入れた。    →そ第74話② ◎第66話 66
    「戦わずして、勝つ」
    これが、武田効果。

    信長は、絶大な自信=確信を持った。    →そ第74話② ◎第66話 66
    「天下布武」は、成る。

    光秀は、武田の滅びゆく姿をその目で見ていた。 →◎第115話  第115話
    それ故、知っている。
    信長の心の内を。

    中国の事。
    急に、慌ただしくなって来た。
       
    安芸の毛利。
    これとて、武田に同じ。
    二の舞となる。
    さ程、時間はかかるまい。
    「天下布武」は、成る。

    ならば、・・・・・。

     【参照】3光秀と光慶 (2)光秀の年齢 4光秀、最大の敵
         そ第74話② 武田効果 

     【参照】10信長の甲斐侵攻 3信長、出陣 ◎第66話 66
         信長は、わずか一月で四ヶ国を手に入れた。
         「長篠効果」「本願寺効果」「武田効果」

     【参照】14 信長の甲斐侵攻 5潮目の変化 ◎第115話  第115話

     〃 〃 【 重史 019】           ✓ 天正10 158200317
    信長の強大さは、瞬く間に、諸国に知れ渡った。
    抗えば、滅す。
    「あの武田が、・・・・・」
    中国 毛利は、戦慄した。
    四国 長宗我部、これに同じ。

      ⑧相州氏政、駿河へ在陣にて、一廉(ひとかど)馳走候、
      ⑨甲斐・信濃の事、城介を残し置き申し付くべき候、
      ⑩路次険難、老足叶うべからざる儀に候間、
      ⑪京都・五畿内、並に、羽柴藤吉郎方迄、残らず相触るべく候、
                              「武家事紀」2/2

    光秀は、現役の戦国武将。
    ⑩老足(老人)では、ない。
    光秀の生年は、大永四1524±四年ぐらい。
    光秀の年齢は、五十九±四歳ぐらい。

     【参照】3光秀と光慶 (2)光秀の年齢 5結論 そ第77話
     【参照】11光秀の年齢 5結論 ◎第77話

    4月21日 【重史035】          公 天正10 158200421
    信長は、安土に凱旋した。
    途中、各所で、大勢の家臣らの出迎えをうけた。

      ①四月廿一日、濃州岐阜より安土へ御帰陣のところに、
      ②ろくの渡りにて、御座船飾り、
      ③捶井(垂井)に御屋形立ておき、
      ④今洲(今須)に御茶屋立てて、
      ⑤柏原に御茶屋拵らへ、
      ⑥佐和山に御茶屋立て、
      ⑦山崎に御茶屋立ておき、
      ⑧京都・堺・五畿内、隣国の各(おのおの)、はるばる罷り下り、
      ⑨御陣御見舞の面々、門前市をなす事に候。
      ⑩路次中、色々進物、員(かず)を知らず上覧に備へ、
      ⑪誠に、御威光有りがたき御代なり。
      ⑫四月廿一日、安土に御帰陣。
                               『信長公記』

    さながら、雲の上を歩むが如し。
    心地いい。
    勝利の余韻が、まだ、尾を引いていた。

    安土城は、新緑の中に聳え立つ。

    4月24日 【重史036】          ✓ 天正10 158200424
    そもそも、中国出陣は、「来る秋」のはずだった。
    なれど、信長は、待ちきれず・・・・・。

      ①中国進発の事、来秋たるべきの処、
      ②小早川、備前児嶋より敗北せしめ、備中高山に楯籠るの間、
      ③羽柴藤吉郎、出陣せしめ取巻くの由、注進候、
      ④重ねて、一左右次第、出勢すべく候、
      ⑤猶、惟任日向守、申すべく候也、
                               「細川家文書」
    秀吉の役目は、毛利の本軍を誘き出すこと。
    早速、注進あった。

    小早川隆景の軍勢が、近くの高山に着陣。
    秀吉、これと対峙。

    吉川元春、未だ、現れず。
    毛利輝元、同。

    信長は、動かず。
    「引きつけよ」
    出陣のタイミングを窺っていた。

    次の報せを待つ。

    中国出陣の日は、近い。
    信長は、光秀と細川藤孝に、出陣の準備を命じた。

    石谷頼辰は、土佐へ向かっていた。
    おそらく、未だ、到着していない。

    光秀の心中や、如何に・・・・・。
    光秀は、信長の、当初の言を受けて、それに合わせて、行動していた。
    「中国進発の事、来秋たるべきの処」

    光秀は、出来る男。
    キレ者である。
    もちろん、十分な余裕を持って。

    ところが、事態急変。
    大幅に、早まることに。
    おそらく、二ヶ月程も・・・・・。

    となれば、頼辰は、間に合わぬ・・・・・

    5月7日 【重史012】           ✓ 天正10 158200507
    信長は、三男信孝に、四国への出陣を命じた。

      ①今度、四国に至って差し下すに就きての条々、
      ②讃岐国の儀、一円、其方に申し付くべき事、
      ③阿波国の儀、一円、三好山城守 (康長) に申し付くべき事、
      ④其外両国の儀、信長、淡州に至って出馬の刻、
      ⑤万端、山城守に対し、君臣父母の思いをなし、
      ⑥天正十年五月七日  ( 朱 印 ) 三七郎殿 
                           「寺尾菊子氏所蔵文書」

    〈解釈〉
      ①四国出陣にあたって 心得
      ②讃岐は、一国すべて、信孝に与える。
      ③阿波は、一国すべて、三好康長に与える。
      ④伊予・土佐については、信長が淡路島に着いてから決める。
      ⑤信孝は、三好康長の養子=三好の後継者である。
      ⑥子を思う父の姿である。

    信長は、信孝に、讃岐と阿波 二ヶ国を与えた。         ②③⑤
    期待していたのだろう。

    信長は、長宗我部元親の「阿波南郡半国」を取り止めた。       ③
    「阿波国の儀、一円、三好山城守 (康長) に」とある。

     【参照】九 【重史181】 阿波南郡半国、本国に相添え遣はさるべし

    土佐については、未定である。                  ④
    これには、「元親」の名が記されていない。
    保留=未決ということ。

    元親の諾否、明らかならず。
    ただただ、時間が経過するのみ。

    信長は、忍耐強い。
    なれど、・・・・・。
    「危うい」
    きわめて、流動的な状況になって来た。

    間に合わねば、光秀の責任問題となる。
    光秀は、元親の取次。
    当然である。

    となれば、・・・・・。
    光秀は、信長の「信」を失う。
    「出来る男」から、一転、「出来ぬ奴」へ。

    すなわち、失脚。
    明智は、没落する・・・・・。

    光秀が、何よりも怖れること。

    信長は、合理主義者。
    無駄を嫌う。
    その上、疑い深く、執念深い。

    光秀は、「高齢」+「役に立たぬ」・・・・・。

    なれど、直ぐにでは、ない。
    「天下布武」=日本統一の成った後。
    「さらなる夢」
    それも、ある。
    戦いは、終わらず。
    使えるだけ、使った後。
    ・・・・・。

    信長は、恐ろしい男。
    不意を衝く。
    「災いは、いつ来るのか、わからない」
    信長に、口実を与えては、ならぬのである。

    そもそも、光秀と元親の関係は、斎藤利三から始まった。

     【重史179】 天正06 1026
       ③次に、字(あざな)の儀、信を遣はし候、「土佐国蠧簡集」

     【重史180】 天正06 1026
       ②明智殿御内、齋藤内蔵助は、元親卿には小舅になるなり「元親記」

     【人物】
       斎藤利三     ◎第57話② →石谷頼辰
       石谷氏      ◎第57話② ◎第146話① ◎第146話②
       石谷光政     第143話 ◎第57話② 【重史174】
       石谷頼辰     第143話 ◎第57話② そ第11話㊴ そ第11話㊵                             

    利三は、元親との問題に責任を痛感していた。
    おそらく、そうだったと思う。

    光秀は、利三を守らねばならなかった。
    嫡男光慶は、まだ若い。
    若すぎた。
    利三は、明智の将来のために、欠くことの出来ぬ人物。
    光秀にとって、家臣は「宝」なのである。

    利三の年齢は、よくわからない。
    だが、その娘 お福=後の春日の局(第三代将軍 徳川家光の乳母)の生年は、
    天正七年1579とされる(「国史大辞典」) 。
    したがって、山崎の合戦時=天正十年1582は、4歳。
    また、この戦いに参戦した兄がいたらしい。
    とすれば、少なくとも14~5歳年長。
    これらのことから、大雑把であるが、利三の年齢は、40代前半ぐらい
    だった、と考える。
    如何、だろうか。

     【参照】3光秀と光慶
       そ第75話 光秀の老いと光慶 国替え
       そ第76話 最大の敵 光慶 後継問題

       そ第6話② 光秀は、大きな悩みを抱えていた。
       そ第7話① 1光秀は、高齢だった。
       そ第7話② 2嫡男光慶は、若すぎた。
       そ第7話③  他に光慶が登場する場面 史料
             3光秀は、明智の将来に不安を感じていた。
              1時代の風潮
              2信長の猜疑心
              3粛清 の怖れ  光秀は、粛清を怖れていた。

    光秀は、追い込まれた。
    心の内は、焦燥感の中。
    なれど、表には出さず。
    平静を装う。

    頼みの綱は、石谷頼辰。
    土佐は、僻遠の彼方。
    今頃は、・・・・・。
    早い帰還を祈るのみ。

     【参照】【四国問題】 十 5月17日
         そ第78話⑨ そ第11⑩02 ◎第147話② 第147話

    5月11日 【重史225】          公 天正10 158200511
    信孝は、四国渡海の準備に入った。
    「阿波国、神戸三七御拝領の事」

     ①四国阿波国、神戸三七信孝へ参らせられ候につきて、
     ②五月十一日、住吉に至りて御参陣。
     ③四国へ渡海の舟ども、仰せ付けられ、其の御用意、半に候。
                               『信長公記』

    信孝は、阿波・讃岐 二ヶ国の新たな国主となる。

     【参照】【重史012】②讃岐国の儀、一円、其方に申し付くべき事、

    信長は、未だ、土佐の国主(くにぬし)を決めていない。
    「信長、淡州に至って出馬の刻、申し出すべきの事」
    淡路島にて、決める、と言っている。

    元親を取り巻く状況は、悪化の一途を辿っていた。 
    故に、間に合ったとしても、「土佐一国」。
    それ以上は、有り得ない。

     【参照】ポ02② ポ02③ 【重史012】 

    信長は、誇り高い男。
    己の命に従わぬ者には、容赦しない。

     【参照】【信長の人物像】 信03

    元親は、土佐を失う可能性すらあった。
    間に合わなければ、さらなる減封。
    最悪、「没収」も有り得た。
    信長は、元親の名を記せず。
    となれば、国主は、余人。
    そういうこと、である。

    信長は、待った。
    「なれど、遅い」
    遅すぎた。

     【参照】ポ02③ 【重史012】

    石谷頼辰は、未だ、帰らず。
    このままでは、失敗。
    光秀は、信長の「信」を失う。
    ・・・・・。 

    信長は、何も言わず。
    容赦なく、時は流れて行く。

    信長は、執念深い。
    このことを、決して、忘れない。

     【参照】【信長の人物像】 信03

    五月中頃 【重史040】           ✓ 天正10 1582005**
    「足蹴事件」1/2

      ①その盛大な招宴の接待役を彼(光秀)に下命した。
      ②これらの催し事の準備について、
      ③信長は、ある密室において、明智と語っていた
      ④反対意見を言われることに堪えられない性質であったので、
      ⑤信長は、立ち上がり、怒りを込め、一度か二度、明智を足蹴にした
                                『日本史』

     〃 〃 【重史041】           ✓ 天正10 1582005**
    「足蹴事件」2/2

      ①明智は、何らかの根拠フンダメントを作ろうと欲した
      ②過度の利欲と野心が募りに募り、
      ③それが天下の主になることを、彼に望ませるまでになった
      ④企てた陰謀を果たす適当な時期を、ひたすら窺っていた
                                『日本史』

     〃 〃 【重史227】           公 天正10 1582005**
    秀吉は、備中高松城を水攻めにしていた。
    「羽柴筑前守秀吉、備中国城々攻めらるゝ事」

    そこに、毛利の本軍が現れた。
    信長は、この好機を逃さない。
    即座に、決断した。

    信長は、毛利を滅ぼすつもりだった。
    さらに、九州を平定しようとしていた。

    信長は、光秀に出陣を命じた。

      ①中国備中へ、羽柴筑前守相働き、
      ②高松へ取り詰め、水攻めに申しつけられ候。
      ③芸州より、毛利・吉川・小早川、人数引卒し、対陣なり。
      ④今度、間近く寄り合ひ候事、天の与ふるところに候間、
      ⑤中国の歴々討ち果たし、
      ⑥九州まで一篇に仰せつけらるべきの旨、
      ⑦ 惟任日向守・長岡・・・、 先陣として、出勢すべきの旨、
                               『信長公記』

    5月17日 【重史029】          公 天正10 158200517 訣別の日。
    光秀は、饗応役の任を解かれた。
    この日が、信長との最後になった。 
    出陣支度のため、坂本城に帰った。

      五月十七日、惟任日向守、安土より坂本に至りて帰城仕り、
                               『信長公記』

    光秀は、石谷頼辰の帰りを待っていた。
    「一縷の望み」
    他に、打つ手がなかった。

    土佐は、僻遠の彼方。
    片道だけでも、一ヶ月ほど時間を要した。
    頼辰の着日は、おそらく、月末。
    否、六月・・・・・。

     【参照】そ第78話⑨ そ第11⑩02 ◎第147話② 第147話

    信長は、必ず、上洛する。
    「信長、淡州に至って出馬の刻」、とある。   【重史012】五月七日
    ならば、その前。
    この月末・・・・・。
    光秀は、そう見ていた。

    光秀は、肚を決めた。
    間に合えば、・・・・・。
    間に合わぬ時は、・・・・・。

    なれど、・・・・・。

    5月19日 【重史228】          公 天正10 158200519 信長は、家康のために、能舞を興行した。
    「幸若大夫・梅若大夫の事」

      ①五月十九日、安土御山惣見寺において、
      ②幸若八郎九郎大夫に舞をまはせ、
      ③丹波猿楽 梅若大夫に能をさせ、
      ④家康公召し列れられ候衆、今度、道中辛労を忘れ申す様に、
      ⑤御桟敷の内、近衛殿(前久)・信長公・家康公・穴山梅雪・
      ⑥世間の褒貶(ほうへん)あるべきやの御思慮を加へられ、
                               『信長公記』

    信長は、中国出陣を控え、気が立っていた。      【重史227】 
    梅若大夫を折檻。

    信長は、誇り高い男。           【信長の人物像】 信03
    世間の評判を気にした。

    そこに、「隙」が生まれた。
    光秀は、これを見逃さない。

    5月20日 【重史229】          公 天正10 158200520
    信長は、家康に対し、最上級の誠意を示した。
    高雲寺御殿にて、饗応。
    信長は、自らが、御膳を運び入れた。

      ①五月廿日、徳川家康公御振舞の御仕立て仰せつけられ、
      ②御座敷は、高雲寺御殿、
      ③家康公・穴山梅雪・石河伯耆・酒井左衛門尉、外、家老の衆
      ④忝くも、信長公御自身、御膳を居えさせられ、
      ⑤家康公御伴衆、上下残さず、安土御山へ召し寄せられ、
                               『信長公記』

    5月21日 【重史230】         公 天正10 158200521
    (十日前)

    家康、上洛。
    信長は、家康を京都・大坂・奈良・堺の見物に案内した。
    「家康公・穴山梅雪、奈良・堺御見物の事」

      ①五月廿一日、家康公御上洛。
      ②京都・大坂・奈良・堺、御心静かに御見物なされ尤もの旨、
      ③案内人は、長谷川秀一。
      ④織田七兵衛・惟住五郎左衛門は、大坂にて、家康公の御振舞
                               『信長公記』

     〃 〃 【重史231】           ✓ 天正10 158200521
    この時、家康とともに、信忠も上洛している。

      ①信長の長男(信忠)が都に到着し、
      ②彼とともに・・・三河の国主(徳川)家康・・・殿が来た。
                                『日本史』

     〃 〃 【重史232】           ✓ 天正10 158200521
    信忠は、中国出陣を控えていた。
    「天下布武」
    おそらくは、その総仕上げとなったであろう大戦。
    脳裏にあるのは、「武田勝頼の首」。         【重史170】
    信忠は、大きな手柄を上げた。
    ならば、出立前に・・・・・。
    そう、思っていたのだろう。

      ①世子は、再び、全兵力を率ゐて日本の端まで行き、
      ②諸国を征服して、彼とその父とに帰服せしむるつもりである
                          「イエズス会日本年報」

     〃 〃 【重史042】           ✓ 天正10 158200521
    元親は、信長の命を受け入れた。

      ①尚々、頼辰へ、残らず申し達し候上は、
      ②今度、御請け、兎角、今に到り、延引候段、
      ③▢御朱印に応じ、此の如き次第を以って、
      ④不慮、成し下し候はん事、了簡に及ばず候、
      ⑤海部・大西*両城の儀は、相、抱え候はて叶わず候、
      ⑥是れは、阿・讃競望のためには、一向にあらず候、
      ⑦東州、平均に属し奉り、御馬を納められ、
      ⑧何事も何事も、頼辰、仰せ談じらるべく候、
                               「石谷家文書」

    石谷頼辰は、土佐にいた。
    「武田滅亡」
    結局、これが、決め手になった。
    「武田効果」、である。

    だが、残念ながら、遅すぎた。
    結果、間に合わず。

    信長は、すでに、動き出していた。
    「四国出陣命令」              【 重史 012 】五月七日
    元親は、未だ、これを知らず。

    五月二十六日 【重史030】          公 天正10 158200526
    (五日前)
    光秀は、坂本から丹波亀山城へ移った。

      ①五月廿六日、惟任日向守、中国へ出陣のため、
      ②坂本を打ち立ち、丹波亀山の居城に至り参着。 
                                『信長公記』

    五月二十七日 【重史028】         ✓ 天正10 158200527
    (四日前)
    信忠は、信長の上洛を待っていた。  

      ①家康は、明日、大坂・堺に罷り下られ候、
      ②中国表、近々、御馬出さるべきの由候条、
      ③我々、堺見物の儀、先ず、遠慮致し候、
      ④一両日中に、御上洛の旨候間、是に、相待ち申し候、
                               「小畠文書」

    ①家康は、明日(二十八日)、大坂・堺へ下向する。
     信忠は、一人、京に残る。

    ②信長は、「近々」、中国へ出陣する。
     近日中・・・・・。
     否、数日中・・・・・。
     その日が、近づいていた。  
     何やら、急に、慌ただしくなって来た。

    ③信忠は、それより前に、出陣するつもりだった。
     「堺見物」などしている場合はない、ということ。
     時の流れが、一段と、速さを増す。

    ④信長は、「一両日中に」、上洛する。
     すなわち、今日・明日・明後日のうち。
     秀吉から、新たな注進があったのだろう。
     事態は、いよいよ、差し迫って来た。

     〃 〃 【重史233】           公 天正10 158200527
    光秀は、戦勝を祈願するため愛宕山に参詣した。

      ①次の日、廿七日に、亀山より、愛宕山へ仏詣。
      ②一宿参籠致し、
      ③惟任日向守、心持御座候や、
      ④二度三度まで鬮(くじ)を取りたる由、申し候。
                               『信長公記』

    光秀は、山上から、京の都を見下ろした。
    「本能寺」

    信長は、急いている。
    そこに、毛利の本軍が現れた。            →【重史227】

    信長は、気が立っていた。         →五月十九日【重史228】
    梅若大夫を折檻。

    信忠は、家康とともに京にいる。
    少人数で。         →五月二十一日【重史230】 【重史231】

    信長は、中国へ出陣する。
    「信長、淡州に至って出馬の刻」        →五月七日【重史012】
    その前に、必ず、上洛する。         →五月十七日【重史029】
    おそらく、少人数で。
    なれど、いつ・・・・・。

    光秀は、六月一日夜、出陣する。

    石谷頼辰、未だ、帰らず。               →そ第74話②
    「間に合わぬ」
    すなわち、交渉失敗。
    「万事休す」
    光秀は、絶体絶命の窮地に追い込まれた。

    そこに、・・・・・。

    五月二十八日 【重史234】         公 天正10 158200528
    (三日前)
    光秀は、愛宕山西坊にて連歌会を催した。

      ①廿八日、西坊にて連歌興行。
      ②ときは今、あめが下知る五月哉
      ③五月廿八日、丹波国亀山へ帰城。
                               『信長公記』

     〃 〃 【重史005】           ✓ 天正10 158200528

      
    ①時は今、あめか下なる五月かな、 光秀
      ②国々は、猶、長閑なる時、    光慶
                               「続群書類従」

     〃 〃 【重史032】           ✓ 天正10 158200528
    これが、全ての元凶となった。

      ①惟任(光秀)、・・・備中に下らずして、密かに謀反をた工む、
      ②年来の逆意、識察する所なり、
      ③ときは今、あめかしたしる五月かな、
      ④今、これを思惟すれば、則ち、誠に、謀反の先兆なり、
      ⑤天正十年六月朔日、夜半より、
                              「惟任退治記」
    秀吉は、実に、素早かった。
    本能寺の変 六月二日。
    山崎の合戦 同十三日。
    その、直後。
    十月には、すでに、この書が、世の出ていたという。

    「惟任退治記」は、創作物。
    信長亡き後の、秀吉の行動を、美化・正当化するために書かれた宣伝本。
    フィクション部分が多い。
    今風に言えば、政府発表の公文書の如きもの。
    瞬く間に、世に広まった。
     
    秀吉は、歴史を捏造した。
    秀吉は、これを利用して、言葉巧みに、大衆を丸め込んだ。
    狡猾で、抜け目のない男である。

    秀吉は、光秀が、己の心中を、事前に、外部の人間に漏らした、
    と言っている。

    秀吉は、光秀を利用した。
    「死人に口なし」
    光秀は、冥途の彼方へ。

    秀吉は、天下を狙っていた。
    「明々白々」
    やがて、織田家を乗っ取った。
    これもまた、「下剋上」。
    その様な時代だった。

    同、二十八日 
    家康が、大坂へ向かった。        →五月二十七日【重史028】
    信忠は、京に残った。

    五月二十九日 【重史033】         公 天正10 158200529
    信長が、上洛した。

      ①五月廿九日、信長公、御上洛。
      ②御小姓衆二、三十人召し列れられ、御上洛。
      ③直ちに、中国へ御発向なさるべきの間、
      ④今度は、御伴これなし。
                                『信長公記』

     従うのは、小姓衆のみ。

     信長は、中国へ出陣するつもりだった。
     信長は、軍勢を京に入れず。
     安土に残した。

     信長は、家康に配慮した。
     家康は、暗殺を怖れていた (『日本史』「本城惣右衛門覚書」) 。 

     信長は、自身を警固する軍勢を伴っていなかった。

     信長は、「油断」した。
     「一世一代の不覚」
     結果として、そうなる。

     光秀は、信長の性格をよく知っている。
     斯くなることを予測していた。 

     光秀は、道中で目にした。
     駿河・遠江・三河は、家康の領地。
     甲斐からの帰路、そこを、通った時のこと。
     信長は、供廻りを最小限にした。

     ①『信長公記』 天正十年1582、三月二十八・二十九日条。
     ②『信長公記』 天正十年1582、四月十六日条。

     これ、すなわち、「配慮」。
     家康を信用しているという、意思表示。

     今度(こたび)も、それに同じ。 

     時は、戦国時代。
     生と死は、紙一重。
     油断=死。
     「相互不信」の時代だった。

     そして、家康が、少人数で安土を訪れた。
     これもまた、信長を信用しているの証。

     否、そうせねばならなかった。
     何しろ、信長は、猜疑心の強い男。
     疑われれば、潰される・・・・・。
     恐ろしい時代だった。

     そして、再び、信長の番となる。
     信長は、これに、応えねばならなかった。

     となれば、・・・・・。
     「都には、軍勢を入れぬ」
     否、「入れるわけには、いかぬ」のである。

     光秀は、聡明な男。
     そう、見ていた。

     斯くなれば、
     「丸裸」・・・・・。

     そして、正に、その通りになった。



     ⇒ 次へつづく

     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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