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本能寺の変1582 【重史224】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史224】 『信長公記』

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    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史224】

    ①播州しそ郡に楯籠る宇野民部、六月五日、夜中に退散。

    ②六月六日、因幡・伯耆両国境目に至りて相働き、

    ③馳せ向ふべき行(てだて)は、一切にこれなく、

    ④国端の城主、縁々を以て、降参の御断り申し、

    ⑤羽柴筑前守秀吉、条々(数々の手柄)、名誉の旨、

    ⑥信長公、御感なされ候ひキ。

                          『信長公記』


     天正八年1580、六月六日。
                 158010606

     「因幡・伯耆両国に至りて、羽柴発向の事」

     播州宍粟郡の宇野民部が城を捨て逃亡した。

      播州しそ郡に楯籠る宇野民部、
      六月五日、夜中に退散。

      木下平太輔(荒木重堅)・蜂須賀小六、追ひ懸け、
      心ばせの侍ども、帰し合せ々々々々、
      爰かしこにて、相戦ひ、歴々の者ども数十人討ち捕り、

     秀吉は、余勢をかって、因幡・伯耆の国境へ進出した。
     
      翌日、六月六日、
      此の競ひを以て、因幡・伯耆両国境目に至りて相働き、
      所々に煙を挙げらるゝのところに、

     信長の勢威、恐るべし。

      東国の御人数発向の由申し候て、
      馳せ向ふべき行(てだて)は、一切にこれなく、

     戦わずして、勝つ。

      国端の城主、縁々を以て、降参の御断り申し、
      人質進上候て、御礼申し上げ候はんの由、言上候ところ、
      御悦び斜ならず。

     秀吉は、光秀に、一歩先んじた。

      羽柴筑前守秀吉、条々(=数々の手柄)、名誉の旨、
      信長公、御感なされ候ひキ。
                               (『信長公記』)

     毛利の反応は、鈍い。

     信長は、秀吉に、大いに満足していた。
     関係は、きわめて良好。

     【引用】

     【参照】【四国問題】
        
    天正八年1580
        天正九年1581
        天正十年1582

     【参照】【四国問題 概要】



     ⇒ 次へつづく


     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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