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本能寺の変1582 【重史220】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史220】 『信長公記』

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     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
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    →【ここがポイント!!】
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史220】

    ①四月九日、大坂退出の次第、

    ②門跡より新門跡かたへ相渡さるべきの旨、

    ③雑賀・淡路島の者ども、爰を取り離れ候ては、迷惑と存知、

    ④新門跡を取り立て候はんの間、

    ⑤若門跡、此の儀に同事、

    ⑥本門跡、雑賀より迎へ舟を乞ひ、四月九日、大坂を退出。

                          『信長公記』


     天正八年1580、四月九日。
                158010409

     「本門跡、大坂退出の事」

     顕如は、教如を残して、石山から退去しようとしていた。
     このことは、すでに、勅使に届けてある。

      四月九日、大坂退出の次第、
      門跡より新門跡かたへ相渡さるべきの旨、御届のところに、

     ところが、・・・・・。
     門徒たちの中には、信長との和睦に、異議を唱える者たちがいた。
     雑賀・淡路の衆である。
     
      近年、山越(やまこし)を取り、妻子を育み候雑賀・淡路島の者ども、
      爰(ここ)を取り離れ候ては、迷惑と存知、

     彼らは、教如を擁立しようとした。
      
      新門跡を取り立て候はんの間、
      先づ、本門跡・北の方を退け申され、
      一先(ひとまず)、相拘(かか)へられ、尤もの由、様々、申すに付きて、

     教如は、これに応諾した。
     
      若門跡、此の儀に同事、右の趣、返事候。

     顕如は、石山の地を去った。
     船で雑賀へ向う。
     
      本門跡・北の方、下間・平井・矢木等、御勅使へ御理り申し、
      雑賀より迎へ舟を乞ひ、四月九日、大坂を退出。
                               (『信長公記』)

     【引用】

     【参照】【四国問題】
        
    天正八年1580
        天正九年1581
        天正十年1582

     【参照】【四国問題 概要】



     ⇒ 次へつづく


     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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