メインコンテンツへスキップ
見出し画像

本能寺の変1582 【重史210】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史210】 「黒田家文書」

    はじめに ←目次  
    ←【 重要史料 】 【全】 【 重史一覧 】 【四国】 八 九 十 ←  
    →重要 ◎目次 
    →重要Point ◎目次 重要Point 通し ◎目次 
    →テーマ別 目次 テーマ別 通し ◎目次 
    →【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
    →その一因 目次大 概説大 目次中 →
     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
    →【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
    →【ここがポイント!!】
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史210】

    ①来島一書口上の趣聞き届け、委細申し遣わし候、

    ②木津・土佐泊兵粮の事、申し付け相渡し候、

    ③右両城玉薬の事、先度書き付け候分、これ又申し付け候、

    ④讃州表の事、敵引き退き候由、其分たるべく候、

                         「黒田家文書」53


     天正九年1581、十月十日。             158101010

     0908 【重史206】 秀吉は、阿波に、淡路衆を送り込むつもりだった。
     0912 【重史207】 秀吉は、黒田官兵衛に、阿波渡海の指揮を命じた。
     0916 【重史208】 志知城は、阿波渡海の作戦司令部。
     0924 【重史209】 黒田官兵衛が、志知城に入った。
                                   ←前へ

     秀吉は、伊予の来島村上氏を味方につけた。
     村上氏は、海賊衆。
     水軍である。
     因島村上氏・来島村上氏・能島村上氏の三家に分かれていた。
     秀吉は、先ず、そのうちの一つを切り崩した。

      書中披見せしめ候、
      来島、一書口上の趣聞き届け、委細申し遣わし候、

     阿波の木津・土佐泊へ。
     秀吉は、黒田官兵衛に、兵粮・玉薬の搬入を命じた。


      隨(したが)って 木津・土佐泊*兵粮の事、申し付け相渡し候、
      右両城、玉薬の事、先度、書き付け候分、これ又申し付け候、
      そこ元、いよいよ、丈夫に、申し付けらるべき事、専一に候、

      *木津城  徳島県鳴門市撫養町木津
       土佐泊城 徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦土佐泊

     讃岐では、長宗我部の軍勢が撤退した。

      讃州表の事、敵引き退き候由、其分たるべく候、
      猶、追って、様子申し越さるべく候、
      恐々謹言、
                    筑前守
               秀吉(花押)
      十月十日
       黒田官兵衛殿
                             「黒田家文書」53

     おそらく、もう少し前・・・・・。
     信長の朱印状が、元親の手に届いていた。
     そういうことなのだろう。

     とすれば、・・・・・。
     信長は、その朱印状を、八月下旬頃に書いたことになる。
     そして、それを光秀へ。


     【引用】

     【参照】【四国問題】
        
    天正八年1580
        天正九年1581
        天正十年1582



     ⇒ 次へつづく


     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

    あなたへのおすすめ