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本能寺の変1582 【重史207】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史207】 「黒田家文書」

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     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
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    →【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
    →【ここがポイント!!】
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史207】

    ①権兵衛に、阿(淡)州衆召し連れ、入城せしむべきの由、

    ②生甚・明与四は、自遁の城まで渡海せしむべく候、

    ③その方、早々、相越され、

    ④野孫五の城に在城候て、

                        「黒田家文書」


     天正九年1581、九月十二日。           158100912
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     秀吉は、黒田官兵衛に、阿波渡海の指揮を命じた。
     渡海するのは、以下の三将。
     仙石権兵衛(秀久)、生駒親正、明石則実。

      猶以って、舟の儀は、入り次第、
      梶原弥介方(船手)、申すべく候、以上、

      阿州自遁かたより、かくのごとく注進候、
      然れば、勝瑞の城、いずれの道にも相渡り候はば、
      権兵衛に、阿(淡)州衆召し連れ、入城せしむべきの由、
      申し遣わし候、

      生甚・明与四は、自遁の城*まで渡海せしむべく候、
      左様候はば、

      *木津城 徳島県鳴門市撫養町木津

     官兵衛は、志知城に在り、これを支援する。
     現、兵庫県南あわじ市志知松本。

      その方、早々、相越され、
      野孫五(野口孫五郎長宗)の城(志知城)に在城候て、
      右の両人を自遁の城へ相越すべく候、
      そのため申し遣はし候、
      恐々謹言
         筑前守
       九月十二日 秀吉(花押)
         黒田官兵衛殿
              (割印)
                            「黒田家文書」50



     


     【引用】

     【参照】【四国問題】
        
    天正八年1580
        天正九年1581
        天正十年1582



     ⇒ 次へつづく


     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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