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本能寺の変1582 【重史193】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史193】 「兼見卿記」

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     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
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    →【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
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    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史193】

    ①清水寺に於いて、羽柴筑前守・宮内卿法印・春長軒

    ②各、罷り向かい、酒宴、

    ③羽筑より、乱舞の衆へ、小袖一つ宛、遣わすと云々、

                           「兼見卿記」


     天正九年1581、三月二十九日。            158100329

     秀吉、清水寺にて、松井友閑と酒宴に興ず。
     二人は、親しい関係にあった。

      廿九日、癸巳(みずのとみ)、
      春長軒(村井貞勝)に、罷り向かう、
      清水寺に於いて、
      羽柴筑前守(秀吉)・宮内卿法印(松井友閑)・春長軒・同作右衛門尉
      (村井貞成)、
      各(おのおの)、罷り向かい、酒宴、
      地下人上下、悉(ことごと)く、罷り出で、手甲楽(法楽踊り)と云々、
      羽筑(秀吉)より、乱舞の衆へ、小袖一つ宛、各にこれを遣わすと云々、
                               (「兼見卿記」)


     【引用】

     【参照】【四国問題】 天正八年1580 天正九年1581



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    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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