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本能寺の変1582 【重史182】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史182】 『信長公記』

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     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
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     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
    →【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
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    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史182】

    ①四月六日、信長、京都より直ちに南方へ御馬を出だされ、

    ②四月八日、三好笑岩(康長)楯籠る高屋へ取り懸け、

    ③四月十四日、大坂へ取り寄り、作毛を悉く薙ぎ捨て、

    ④御人数、十万余騎のつもりなり。

    ⑤都鄙の貴賤、皆耳目を驚かすばかりなり。

                           『信長公記』


     天正三年1575、四月六日。              157500406

     信長は、京より、出陣した。
     
    四月六日
     一路南下。
     この日は、八幡に陣を張った(京都府八幡市)。

      四月六日、
      信長、京都より直ちに南方へ御馬を出だされ、
      其の日、八幡に御陣を懸けられ、
                               (『信長公記』)

     信長は、自身、「一万余」の軍勢を率いていた。
     これが、直卒の兵力。
     すなわち、「親衛隊」。

     吉田兼見が、これを見送っている。
     突然だったのだろう。
     「驚目」、とある。
     都は、無事平穏。
     信長による平和がつづいていた。
     
      六日、甲戌(きのえいぬ)、辰の刻(8時頃)、
      信長、南方へ出陣、一万余、室町通り五条へなり、
      予、蛸薬師の辺りにて礼を申しおわんぬ、
      村民に向かひ、今日出陣驚目の由、申しおわんぬ、
                               (「兼見卿記」) 

     信長の狙いは、二つ。
     一、摂津大坂、石山本願寺。
     一、河内高屋城、三好笑厳(康長)。            →【 人物 】

     同七日
     若江城に到着(大阪府東大阪市若江北町3丁目)。
     
      次の日、若江に至つて御陣取り。

     同八日
     敵方の付城、萱振城には、目もくれず(大阪府八尾市萱振町)。
     そのまま直進、南下した。
     
      大坂より、若江へ差し向け候、付城かいほりへは、御手遣りもなく、
      直ちに、奥へ御通りなさる。

     信長は、先ず、高屋城を攻めた。
     大阪府羽曳野市古市。

     城には、三好康長が立て籠もっていた。        →【重史181】
     康長は、長慶(大永二年1522~永禄七年1564)の叔父。
     嫡流家に血の濃い人物。

     信長は、この康長に目をつけた。
     「何れ、役に立つ」      →【四国】 【重史152】 【重史153】

     光秀にとって、三好康長は、因縁の相手。
     それは、五年後にわかる。   →【四国】 【重史152】 【重史153】

      四月八日、
      三好笑岩(康長)楯籠る高屋へ取り懸け、町を破られ、
      不動坂口、相支へ、
      推しつおされつ、数ヶ度、戦ふなり。
      伊藤与三右衛門・弟伊藤二介、
      度々の先懸にて、数ケ所の疵ヲ被(こうむ)り、討死候なり。

     信長は、無理攻めをせず。
     威嚇をつづけた。

     すなわち、
     信長は、康長に降伏を促した。

     信長は、駒ケ谷山(同羽曳野市駒ケ谷)に陣取った。
     西方に高屋城を見下ろす、
     時は、春爛漫の頃。
     青空の下、風にたなびく旗・幟。
     きらびやかな織田の大軍勢。
     信長の本陣を中心に、諸将の陣所が幾重にも連なっている。
     見事な陣構えであった。
     情景が目に浮かぶようである。
     
      此の時、信長は、駒ケ谷山より御目の下に御見物なされ、
      晴がましき働きなり。

      其の日は、誉田の八幡・道明寺河原*へ取り続き、段々に陣取り、
      信長は、駒ケ谷山に御陣を張らせられ、万方へ足軽を仰せ遣はされ、
      佐久間右衛門・柴田修理亮・丹羽五郎左衛門・塙九郎左衛門、
      谷々入々まで、御放火。
      其の上、麦苗薙ぎ捨て、

       *誉田の八幡 同羽曳野市誉田三丁目2-8
        道明寺河原 同藤井寺市道明寺

     なお、この時の光秀の配置については不明である。
     この中に、いたのだろうか。
     それとも、最前線へ。
     高屋城のより近くに展開していたものか。
     よくわからない。

     信長は、高屋城から軍勢を引き揚げた。
     同十二日
     信長は、駒ケ谷山から、住吉に陣を移した。
     
      四月十二日に、住吉へ御陣替へ。

     同十三日
     信長は、住吉から天王寺へ陣を替えた。
     
      十三日、
      天王寺に至つて御馬を寄せられ、
      畿内・若狭・近江・美濃・尾張・伊勢・丹後・丹波・播磨・
      根来寺四谷*の衆、残らず罷り立ち、
      天王寺・住吉・遠里小野*近辺に陣取るなり。

       *根来寺四谷 和歌山県岩出市根来
        遠里小野  大阪市住吉区遠里小野

     信長は、石山本願寺に攻め寄せた。
     同十四日
     周辺の田畠を薙ぎ払う。
     威嚇、恫喝。

     総勢、十万余。
     十ヶ国以上。
     これまで、見たこともない大軍勢であった。
     人々は、驚いた。
     
      四月十四日、
      大坂へ取り寄り、作毛を悉く薙ぎ捨て、
      御人数、十万余騎のつもりなり。
      ケ様に、上下結構なる大軍、見及ぼざる由にて、
      都鄙の貴賤、皆耳目を驚かすばかりなり。
                               (『信長公記』)


     【引用】



     ⇒ 次へつづく

     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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