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本能寺の変1582 【重史187】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史187】 「吉田文書」

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    →【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
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     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
    →【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
    →【ここがポイント!!】
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史187】

    三好山城守、近日、讃州安富館(雨滝城)に至り下国必定に候、

                          「吉田文書」6/8


     天正八年1580、十一月二十四日。           158001124

     信長は、三好康長に、四国(讃岐)への出陣を命じた。

     光秀から、元親へ。
     おそらく、そうだろう。
     光秀が、これを知らぬはずはない。
     松井友閑も、これに同じ。
     信長は、少なくとも、光秀と友閑の二人には、話を通していたものと
     思う。

     また、風聞等も流れていたのかもしれない。

     元親は、このことを知っていた。
     元親が、秀吉に宛てた同日付書状に、次のよう書かれている。

     6 一、三好山城守、近日、讃州安富館(雨滝城)*に至り下国必定に候、
        子細、口上、申し分くべく候、 
                     (「吉田文書」6/8「戦国遺文 三好編」)

        *雨滝城 香川県さぬき市大川町富田中

     ⇄【重史192】
      天正九年1581、一月二十三日。
      信長は、三好康長に、阿波への出陣を命じた。 

      三好山城守(康長)、
      是れは、阿波へ遣わし候間、其用意に、除くべく候、
                                「士林証文」


     【引用】


     【参照】【四国問題】 天正八年1580



     ⇒ 次へつづく

     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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