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本能寺の変1582 【重史225】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史225】 『信長公記』

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     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
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    →【ここがポイント!!】
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 

    【重史225】

    ①四国阿波国、神戸三七信孝へ参らせられ候につきて、

    ②五月十一日、住吉に至りて御参陣。

    ③四国へ渡海の舟ども、仰せ付けられ、其の御用意、半に候。

                          『信長公記』


     天正十年1582、五月十一日。
                158200511

     信長は、信孝に、阿波・讃岐 二ヶ国を与えるつもりだった。
     三好康長の養子に入れて=三好氏の後継者として、ということだろう。
     すなわち、体のいい乗っ取り。
     『信長公記』五月七日条に、
     「万端、山城守に対し、君臣父母の思いをなし、馳走すべきの事、
      忠節たるべく候」、とある。             【重史012】

     信孝は、四国渡海の準備に入った。

     「阿波国、神戸三七御拝領の事」

      さる程、四国阿波国、神戸三七信孝へ参らせられ候(与えた)につきて、
      御人数、御催なされ、

      五月十一日、住吉に至りて御参陣。
      四国へ渡海の舟ども、仰せ付けられ、其の御用意、半(なかば)に候。
                               (『信長公記』)

     【引用】

     【参照】【四国問題】
        
    天正八年1580
        天正九年1581
        天正十年1582

     【参照】【四国問題 概要】
        
    天正八年1580
        天正九年1581
        天正十年1582
        



     ⇒ 次へつづく


     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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