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本能寺の変1582 【四国】 十 0520 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【四国問題】 天正十年1582 5月20日

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    →【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
    →その一因 目次大 概説大 目次中 →
     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
    →【人物】
     【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 【重史146】
    →【ここがポイント!!】
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正

    天正十年1582 5月20日

    目次

    5月20日 【重史229】          公 天正10 158200520
    信長は、家康に対し、最上級の誠意を示した。
    高雲寺御殿にて、饗応。
    信長は、自らが、御膳を運び入れた。

      ①五月廿日、徳川家康公御振舞の御仕立て仰せつけられ、
      ②御座敷は、高雲寺御殿、
      ③家康公・穴山梅雪・石河伯耆・酒井左衛門尉、外、家老の衆
      ④忝くも、信長公御自身、御膳を居えさせられ、
      ⑤家康公御伴衆、上下残さず、安土御山へ召し寄せられ、
                               『信長公記』



     ⇒ 次へつづく



     
     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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