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本能寺の変1582 【重史029】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

    【重史029】 『信長公記』 

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    →【シリーズ】
     信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道 1 2 3 4 5 
    →その一因 目次大 概説大 目次中 →
     1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
     4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
     3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
    →見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
    →【人物】 【信長の人物像】 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
    →【ここがポイント!!】
    *◎=重要ヶ所 P=重要Point 史=史料 公=信長公記 ✓=チェック済
     信=信長の人物像 光=光秀の人物像 そ=その一因 テ=テーマ別 
    *加筆修正 250928 

    【重史029】 そ第78話⑦

    五月十七日、惟任日向守、安土より坂本に至りて帰城仕り、  
                           『信長公記』

     【参照】
     【重史020】芸州より、毛利・吉川・小早川、人数引卒し、対陣なり。 
     【重史021】先陣として、出勢すべきの旨、仰せ出だされ、則ち・・・

     天正十年1582、五月十七日。            158200517

     訣別の日。
     光秀は、饗応役の任を解かれた。
     この日が、信長との最後になった。 
     出陣支度のため、坂本城に帰った。
     
      五月十七日、惟任日向守、安土より坂本に至りて帰城仕り、
      何れも々々々(他の面々も)、同事に、本国へ罷り帰り候て、
      御陣用意候なり。
                              (『信長公記』)


     【引用】3光秀と光慶 そ第78話⑦
         【四国問題】 天正十年1582 五月十七日



     ⇒ 次へつづく
     

     
     
    ただただ、真実を知りたい。この一念が原動力になっています。「本能寺の変」「その原因・動機を究明する」。この一点に焦点を絞りました。数多ある史料。精査・検証等々。長い時間を要しました。そして、ついに辿り着きました。これが、光秀謀反の真相です。只今、鋭意執筆中!!ご期待下さい!!

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