
『音の檻』第3話「バンドの亀裂」
#創作大賞2026 #ミステリー小説部門 #ドラマ脚本原案 #少年マンガ原案 #アニメ原案
【目次】
第1話「密室のラスト・コード」
第2話「刑事と記者」
第3話「バンドの亀裂」
第4話「5年前の影」
第5話「音源という名の鍵」
第6話「容疑者たちの夜」
第7話「聴こえない演奏者」
第8話「証言の穴」
第9話「兄の記憶」
第10話「音楽という凶器」
第11話「桐嶋薫の仮面」
第12話「密室の再現」
第13話「第二の犠牲者」
第14話「音の記憶」
第15話「組織の壁」
第16話「五年前の真実」
第17話「崩れるアリバイ」
第18話「二人の選択」
第19話「聴覚という武器」
第20話「黒幕の正体」
第21話「どんでん返し」
第22話「対決」
第23話「真実の音」
第24話「再びステージへ」
バンド事務所は、駅から歩いて十分の雑居ビルの二階にあった。
神崎真琴はエントランスの錆びついたインターホンを押した。返事はない。ドアを押すと、鍵はかかっていなかった。
廊下を奥へ進むと、小さな応接間がある。ソファが三つ、テーブルが一つ。壁にはバンドのポスターが貼ってあった。『ジ・アフタートーンズ』。五年前はこのバンドに、もう一人メンバーがいた。真琴はその名前を心の中で繰り返さないようにした。
最初に現れたのは、ドラムの高梨康平だった。
彼は無精ひげを生やし、目が少し赤かった。眠れていないのだと、その顔だけでわかった。
「あんた、小森の妹さんだろ」
「神崎真琴です。音楽雑誌のライターをしています」
「知ってる。兄貴がいつも言ってた。妹は頭が固いって」
真琴は笑わなかった。高梨も笑わなかった。
「レイのこと、聞きたいんだ」
「聞いてどうする。もう死んだんだぞ」
高梨はテーブルに置かれた灰皿を無意識に触っていた。中には吸いかけのタバコが三本も挟まっていた。
「レイは最近、様子が変だったと思うか」
「……変だったな。音を外すことが増えた。あいつ、昔は絶対音感なんて言われてたくせに」
「ミスが増えた、と」
「そう。でも、それだけだ。誰にでもある。スランプってやつだろ」
高梨はタバコに火をつけた。紫煙が天井に向かって立ち上る。
「小森は関係ない」
真琴が何も言わないうちに、彼は付け加えた。
「何か聞かれたら、あいつはトイレにいたって言え。俺がそう言ったって伝えろ」
「それはどういう—」
「それだけだ」
高梨はタバコを灰皿に押し付け、立ち上がった。彼はドアの方へ歩き出したが、途中で立ち止まった。
「あんた、兄貴のこと、信じてるのか」
「……信じている。無実だと」
「そうか」
高梨はそれだけ言って、出て行った。
あとにはタバコの煙と、何かを拒むような空気だけが残った。
次に来たのは、真琴の実兄、小森優斗だった。
彼は笑っていた。それは誰かに向けたものではなく、自分の表情がそうなってしまうという、無意識の笑顔だった。
「真琴、来てたのか」
「お兄ちゃん」
呼び方は昔のままだった。小森は少し照れくさそうにソファに座った。
「レイのこと、何か知ってたら教えてほしい」
「知らない。俺はトイレにいた。それだけだ」
「高梨さんは、あなたが楽屋の前をうろついてたって言ってた」
小森の笑顔が一瞬で消えた。
「あいつは嘘つきだ」
「じゃあ、あなたはどこにいたの」
「トイレだって言ってるだろ」
小森の声が大きくなった。応接間の外にいた誰かが、立ち止まった気配がした。
「……真琴。お前、五年前のことをまだ引きずってるんじゃないか」
小森の声が小さくなる。それは怒りからではなく、心配からだった。
「雅也兄ちゃんのことは、もういいんだ。終わったことだ」
「終わってない」
真琴の声は思ったより固かった。
「お兄ちゃんは終わったと思ってるの? あの人が無実だって証明されないまま、死んでいいと思ってるの」
「だからって、レイの死と何の関係がある」
「わからない。でも、偶然が多すぎる。あの曲がレイのスマホに残ってた。兄ちゃんのハーモニカと同じメーカーのハーモニカが現場に落ちてた」
小森は黙った。彼の口が何度か開き、閉じた。
「……レイは、雅也兄ちゃんのことを尊敬してた」
やっとのことで、その言葉が出てきた。
「あいつ、ずっと雅也兄ちゃんの話をしてた。『神崎さんの無実を証明したい』って。だから」
「だから、殺されたのかもしれない」
真琴は言った。小森は答えなかった。
最後に現れたのは、桐嶋薫だった。
彼は静かにドアを開け、静かにソファに座った。補聴器が左耳に光っている。右手の中指には、小さな絆創膏。
「お待たせしました。高梨さんと小森さん、もうお帰りでしたか」
「ええ。あなたからも話を聞きたくて」
「構いません。ただ」
桐嶋は自分の補聴器をそっと触った。
「あまり大きな声で話さないでください。これ、調子が悪くて」
「それはお気の毒に」
真琴は潤滑剤のことを思い出した。兄のメンテナンスキット。あの中にも、同じような小さなオイルがあった。
「桐嶋さんは、レイが最近どうだったか、覚えていますか」
「……優しかったです。いつも通り。でも」
桐嶋は少し間を置いた。
「時々、どこか遠くを見るような目をしていました。まるで、ここじゃない場所を見ているみたいに」
「ここじゃない場所」
「ええ。もしかしたら、彼は誰かに」
桐嶋は言いかけて、やめた。
「思い違いかもしれません」
真琴はメモ帳を取り出した。ペンを走らせる。
「あなたの手、どうされたんですか」
「ああ、これ。包丁で。料理が下手なもので」
桐嶋は軽く笑った。その笑顔は、どこか作り物めいていた。
「桐嶋さんは、あの日、楽屋の近くにいましたか」
「いいえ。私はすぐに外に出ました。人がたくさんいて、息苦しかったので」
「そうですか」
真琴はそれ以上追及しなかった。追及したところで、彼が本当のことを言うとは思えなかったから。
事務所を出るとき、マネージャーが声をかけてきた。
「神崎さん。ちょっといいですか」
マネージャーの名前は沢渡修司。四十代半ば。このバンドを十年以上支えている古株だった。
「レイの遺品の中に、あなたにだけ見せてほしいものがあると言われてたんです」
「私に?」
「ええ。『神崎真琴さんにだけ渡してほしい』って。彼はそう言い残してました」
マネージャーは真琴に、小さな鍵を一つと、日記帳を手渡した。
「鍵は本人の部屋にありました。何の鍵かはわかりません。日記帳の最後のページに、あなた宛ての言葉が書いてあります」
真琴は日記帳を開いた。最後のページ。
そこには、こう書かれていた。
『神崎真琴さんへ。『残響の彼方』を、もう一度聴いてください』
真琴は日記帳を閉じた。手が少し震えていた。
「……これ、警察には」
「まだです。あなたが先に読むようにって、レイが」
マネージャーの声は苦しげだった。
「彼は何かと戦っていました。何かを伝えたかったんだと思います」
真琴はうなずいた。それしかできなかった。
帰宅後、真琴はレイの日記帳を読み返した。
若い頃の夢、バンドへの思い、メンバーへの不満。綴りは雑で、ところどころ読み取れない箇所もある。
でも、最後のページだけは、丁寧な字で書かれていた。
先ほど読んだ文章。それだけ。
『残響の彼方を、もう一度聴いてください』。
なぜこの曲なのか。なぜ自分なのか。
真琴はスマホを取り出した。レイの写真を検索する。ライブの写真。オフショット。どこか楽しそうに見える。でも、その目はどこか寂しげだ。
「レイさん。あなたは何を知っていたんですか」
呟いても、答えは返ってこない。
真琴は鍵を手に取った。レンタルロッカーの鍵のようだった。駅のコインロッカーかもしれない。それとも、どこかの施設のロッカー。
調べるしかない。
彼女は立ち上がり、コートを取った。
その時、スマホが震えた。音川からだ。
「神崎さん。少し話がしたい」
「何ですか」
「レイがあなたに何かを残したと聞きました。内容を教えてもらえますか」
真琴は一瞬息を止めた。
「……マネージャーから聞いたんですか」
「ええ。あなたにだけ渡すものがあるって、レイが言い残していたと」
真琴は答えなかった。
「神崎さん。隠さないでください。これは殺人事件です」
「ええ。あなたが得意な事件ですものね。五年前と同じ」
言ってから、少し言い過ぎたと思った。
電話の向こうで、音川が息を吸う音がした。
「……すみません」
「いいえ。あなたの気持ちもわかります」
音川の声は低かった。
「でも、今回は協力しませんか。あなたの兄の無実を証明したい。私もです」
「なぜ」
「それが、私の罪滅ぼしだから」
真琴は何も言わなかった。言えなかった。
「レイの日記。明日、見せてください」
「……考えておきます」
電話を切った。
真琴はスマホを机の上に置いた。手のひらに汗をかいていた。
彼女はもう一度、鍵を見た。
レンタルロッカー。明日、全部調べよう。
兄のために。
レイのために。
そして、自分のために。
窓の外はもう暗くなっていた。九月の終わりは、日が落ちるのが早い。
真琴はカーテンを閉めようとして、ふと手を止めた。
向かいの建物の屋上に、誰かが立っているような気がした。
目を凝らす。でも、そこには誰もいなかった。
気のせいだ。
そう思いたかった。
カーテンを閉める。部屋の明かりだけが、彼女の影を壁に映した。
その影は、一人分しかなかった。
前は、もう一つ、大きな影があったのに。
真琴は目を閉じた。
明日は、あの曲を聴こう。『残響の彼方』を。
今まで避けてきた。兄の最後の音を、聴くのが怖かった。
でも、もう怖がっている場合じゃない。
真琴はイヤホンを手に取り、しばらく見つめていた。
そして、机の引き出しにしまった。
まだ、今夜はいい。
明日。
明日こそ。
第3話 了