
『音の檻』第8話「証言の穴」
#創作大賞2026 #ミステリー小説部門 #ドラマ脚本原案 #少年マンガ原案 #アニメ原案
【目次】
第1話「密室のラスト・コード」
第2話「刑事と記者」
第3話「バンドの亀裂」
第4話「5年前の影」
第5話「音源という名の鍵」
第6話「容疑者たちの夜」
第7話「聴こえない演奏者」
第8話「証言の穴」
第9話「兄の記憶」
第10話「音楽という凶器」
第11話「桐嶋薫の仮面」
第12話「密室の再現」
第13話「第二の犠牲者」
第14話「音の記憶」
第15話「組織の壁」
第16話「五年前の真実」
第17話「崩れるアリバイ」
第18話「二人の選択」
第19話「聴覚という武器」
第20話「黒幕の正体」
第21話「どんでん返し」
第22話「対決」
第23話「真実の音」
第24話「再びステージへ」
捜査本部の朝は早い。
午前七時。音川は机の上に並べられた証言録を取り囲んでいた。コーヒーカップが二つ。一つは飲みかけ、もう一つは空。彼は眠っていなかった。眠れなかった。
ホワイトボードには、関係者の名前と証言の要約が書き出されている。
小森優斗:「事件当時、トイレにいた。誰も見ていない。」
高梨康平:「小森は楽屋の前をうろついていた。絶対に見た。」
桐嶋薫:「すぐに外に出た。何も見ていない。」
音川はマーカーを手に取り、小森と高梨の証言を丸で囲んだ。二つの丸の間に、大きな矢印を書く。
「矛盾」
呟いて、マーカーを置いた。
「どちらかが嘘をついている。いや、もしかすると両方とも真実を言っている可能性もある」
誰も答えない。当たり前だ。今、この部屋には音川しかいない。
彼はファイルを閉じ、コートを手に取った。今日はもう一度、小森と高梨に会わなければならない。
小森優斗との再聴取は、午前九時から始まった。
小森は昨日より疲れていた。目の下の隈が濃くなっている。口元には無精ひげ。彼は緊張しているのか、それとも――
「小森さん。もう一度お聞きします。事件当時、あなたはどこにいましたか」
「トイレです」
小森の答えは即答だった。早すぎる。考えていない。むしろ、考えないようにしている。
「楽屋から出て、すぐ左のトイレです」
「誰かと会いましたか」
「いいえ」
「では、なぜ高梨さんはあなたを『楽屋の前をうろついていた』と証言しているんですか」
小森は黙った。彼の指が机の上をなぞっている。円を描いている。
「小森さん」
「……覚えていないんです」
「何を」
「その時のことを。トイレに行ったのは覚えている。でも、その前後に何をしていたか、思い出せない」
音川はペンを置いた。
「思い出せない、と」
「はい」
「防犯カメラの映像には、あなたが楽屋の前を通る姿が映っていました。あなたは『トイレ』に行ったと言う。しかし、トイレは楽屋から左に曲がったところにあります。楽屋の前を通らなければ、トイレには行けません。つまり、あなたは『楽屋の前を通った』という事実を否定しているわけではない。ただ、『うろついていた』という高梨さんの証言を否定している」
小森は何も言わなかった。
「では、何をしていたんですか。楽屋の前に立って。何を見ていましたか。何かを待っていましたか。それとも――誰かを」
「違います」
小森の声が大きくなった。
「俺は何もしていない。ただトイレに行っただけだ。それ以上は――」
彼は言いかけてやめた。唇を噛みしめている。
音川はスマホを取り出した。小森の携帯電話の位置情報を表示する。
「小森さん。あなたの携帯は、事件当時、この場所にいました」
音川は机の上に地図を広げた。レイの楽屋の真向かい。非常階段の踊り場。
「なぜ、ここに?」
小森の顔色が変わった。
「ただ……煙草を吸おうと思って」
「非常階段は禁煙です」
「……知らなかった」
「本当ですか」
小森は答えなかった。彼の横顔は石のように固い。
音川はもう一つ、地図を広げた。別の時間帯。事件の一時間前。
「では、これはどう説明されますか。あなたはこの時刻、レイさんの自宅付近にいました」
小森の唇が震えた。
「何の用事だったんですか」
「……覚えていない」
「覚えていない?」
「はい。覚えていないんです。あの日から、記憶が……変なんです。ところどころ、抜けている」
抜けている。記憶が。
音川はその言葉を反芻した。それは「嘘」なのか、それとも「本当」なのか。
「小森さん」
「もういいでしょう。これ以上、何を聞くんですか。俺はやっていない。それだけは確かです」
小森は立ち上がった。彼の目には涙が浮かんでいた。
「お願いです、刑事さん。妹を守ってください。真琴を。あいつは一人で何かを始めようとしている。止めてください」
音川は何も言えなかった。
高梨康平の再聴取は、午後から始まった。
彼は小森とは違い、落ち着いていた。いや、落ち着きすぎている。その態度がかえって不自然だった。
「高梨さん。もう一度お聞きします。あなたは『小森が楽屋の前をうろついていた』と証言しました。なぜ、そこまで正確に覚えているんですか」
「見たからです」
「時間は?」
「午後九時四十五分ごろ」
「小森さんの服装は?」
「黒いTシャツにジーンズ」
「あなたは、小森さんをずっと監視していたんですか」
高梨の目が一瞬、泳いだ。
「監視なんてしていません」
「では、なぜここまで正確に覚えているんですか。普通の人間は、ここまで覚えていません。特に、自分が関わりのないことであれば」
「関わりがないとは言っていません。小森はレイを殺した。だから覚えているんです」
「なぜ小森さんがレイさんを殺したと断言できるんですか」
「……動機があるからです」
「どんな動機です」
高梨は一度、唇を噛んだ。そして、言った。
「レイは小森の妹に近づいていた。小森はそれを快く思っていなかった。二人は喧嘩していた。それだけじゃない。レイは小森の立場を脅かしていた。ヴォーカルの。小森は自分のポジションが危うくなるのを恐れた」
「それはあなたの推測ですか」
「確信です」
音川はその言葉を書き留めた。確信。根拠ではなく、確信。
「高梨さん。あなたは小森さんを『殺人犯』だと決めつけている。でも、証拠は?」
「これから出ます」
「これから?」
「ええ。私が集めています。小森が犯人だと証明する証拠を」
音川はペンを置いた。この男は「確信」を「証拠」より優先している。それは危険な思考だ。
「自分で証拠を集めないでください。これは警察の仕事です」
「警察は何もしていない」
高梨の声が鋭くなった。
「あなたたちは五年前も何もしていなかった。雅也さんを逮捕したけれど、真犯人は結局捕まらなかった。同じことを繰り返すつもりですか」
音川は答えられなかった。
捜査本部に戻ると、机の上に新しい資料が積まれていた。
五年前の事件の捜査記録。音川はそれらを一冊ずつめくっていった。
何かが引っかかっている。何かがおかしい。
小森の証言。高梨の証言。そして――真壁警部の行動。
音川はある資料で手を止めた。
当時の証人リスト。その中に、「榎本由香」という名前があった。二十四歳。当時、現場のライブハウスの近くに住んでいた。
彼女の証言は簡単なものだった。「何も見ていない。何も聞いていない。」
しかし、その後の記録がない。彼女の連絡先はそのままになっている。今はどうなっているのか――
音川はインターネットで検索した。榎本由香。同名の人物は何人かいたが、特定できなかった。
もしかすると、彼女は姿を消しているのか。
その時、スマホが震えた。真琴からのメッセージだった。
『小森(私の兄)は何て言ってましたか』
音川は返信を迷った。しかし、こう打った。
『彼はトイレにいたと繰り返しています。しかし、証拠は彼が非常階段にいたことを示しています』
すぐに返信が来た。
『兄は嘘はつけない人間です。でも彼が隠しているなら、それは誰かを守るためです。私を守るためかもしれません』
誰かを守るため。
小森は守っている。誰を?真琴を?それとも――
音川はスマホを机の上に置いた。彼の頭の中では、小森の言葉と高梨の言葉が交差していた。
真琴は「兄は嘘をつけない」と言う。しかし証拠は彼が嘘をついていることを示す。
真実はどこにあるのか。
午後六時。鑑識から連絡があった。
「音川さん。先ほどお願いした小森優斗の指紋照合の結果が出ました」
「どうだった」
「レイの楽屋のドアノブから、小森さんの指紋が検出されました」
音川は息を飲んだ。
「それと――」
鑑識の声が続く。
「ハーモニカからも、小森さんの指紋が。ただしそれは『血痕がついていた部分とは別の場所』からです。つまり小森さんは、血痕がつく前のハーモニカに触れていた可能性があります」
音川は目を閉じた。
小森は嘘をついていただけではない。彼は現場にいた。ハーモニカに触れた。そして――血痕がつく前に。
「鑑識、もう一つ聞きたい。その血痕は誰のものだ」
「まだ解析中です。ただ、被害者のものではないことだけは確かです」
犯人の血。もし小森が犯人なら、彼の血がハーモニカについていなければならない。しかし、結果はまだ出ていない。
音川は電話を切り、机の上に広げられた証拠を見つめた。
ドアノブの指紋。ハーモニカの指紋。位置情報。証言の矛盾。そして――五年前の行方不明の証人。
すべてが小森を指している。
しかし、あまりに出来すぎている。
まるで誰かが「この男を犯人にしろ」と導いているかのように。
音川は真壁警部の言葉を思い出していた。
「これで十分だ。早く逮捕しろ」
五年前と同じだ。
同じ轍を踏もうとしている。
「もう少しだけ」
音川は呟いた。
「もう少しだけ、調べさせてくれ」
誰に言ったわけでもない。ただ、自分自身に言い聞かせていた。
第8話 了