
『音の檻』第9話「兄の記憶」
#創作大賞2026 #ミステリー小説部門 #ドラマ脚本原案 #少年マンガ原案 #アニメ原案
【目次】
第1話「密室のラスト・コード」
第2話「刑事と記者」
第3話「バンドの亀裂」
第4話「5年前の影」
第5話「音源という名の鍵」
第6話「容疑者たちの夜」
第7話「聴こえない演奏者」
第8話「証言の穴」
第9話「兄の記憶」
第10話「音楽という凶器」
第11話「桐嶋薫の仮面」
第12話「密室の再現」
第13話「第二の犠牲者」
第14話「音の記憶」
第15話「組織の壁」
第16話「五年前の真実」
第17話「崩れるアリバイ」
第18話「二人の選択」
第19話「聴覚という武器」
第20話「黒幕の正体」
第21話「どんでん返し」
第22話「対決」
第23話「真実の音」
第24話「再びステージへ」
真琴はパソコンの前に座っていた。
画面には音声ファイルが表示されている。『for_ma_koto』。ギターの裏板から見つけたUSBメモリの中にあったファイルだ。一度は聴いたが、最後まで聴く勇気がなかった。兄の悲鳴の先に、何が待っているのかわからなくて。
でも今は違う。レイが遺した日記の言葉——『残響の彼方』を、もう一度聴いてください——その意味を知るために、最後まで聴かなければならない。
机の上には兄の写真が置いてある。雅也はギターを抱えて、笑っている。二十歳の時の写真。まだバンドを始めたばかりで、「いつか武道館でやるんだ」と言っていた頃。
真琴は深呼吸をした。そして、ファイルをダブルクリックした。
レイの声が流れてくる。
「聴く覚悟があるなら」
真琴は目を閉じた。意識が、五年前へと引き戻されていく――。
五年前。真琴は十七歳だった。
兄・雅也は二十二歳。インディーズバンド「ジ・アフタートーンズ」のギタリスト。バンドは順調だった。ライブハウスは満員。音楽雑誌にも取り上げられた。メンバーは雅也、小森優斗、高梨康平、朝比奈レイ。四人は仲が良かった。少なくとも、表面上は。
真琴はよく練習を見学に行った。学校が終わってから、駅前のスタジオまで自転車で十五分。雅也はいつも「また来たのか」と言いながら、嬉しそうに手を振った。
「真琴、聴いてくれ。新しい曲ができた」
「また? 先週も新曲って言ってたじゃん」
「俺は止まらないんだよ」
雅也は笑った。その笑顔が、真琴は大好きだった。
練習後、二人でよく話した。スタジオの外の自動販売機の前で。缶コーヒーを買って、ベンチに座って。
「兄ちゃん、バンドは楽しい?」
「楽しいよ。でも、大変でもある」
「何が大変なの」
雅也は少し間を置いた。そして、言った。
「みんな、それぞれの思いがあるから。それを一つにまとめるのは、難しい」
真琴はその時、兄が何を言っているのかよくわからなかった。でも今思えば、それは予兆だったのかもしれない。バンドの亀裂の。そして、事件の。
雅也の様子が変わり始めたのは、それから数ヶ月後のことだった。
練習に遅刻するようになった。ライブでミスをするようになった。ギターの音が、以前ほど綺麗じゃなくなった。
「疲れてるだけだよ」
真琴が聞いても、雅也はそう言って笑うだけだった。でも、その笑顔は以前より少しだけ暗かった。
ある日、真琴は雅也の部屋で「耳栓」を見つけた。
机の引き出しの奥。ティッシュに包まれて、隠すようにして。
「兄ちゃん、これ何」
雅也の顔色が変わった。
「な、何でもないよ」
「ギタリストが耳栓をするの? おかしいよ」
「……ちょっと、耳が疲れやすくなってて」
「耳が?」
「大したことじゃない」
雅也は耳栓を奪い取って、また引き出しの奥にしまった。
「誰にも言うなよ。特にレイには」
「どうして」
「彼は俺と同じ病気と戦っている。それを知ったら、彼が音楽を続ける勇気を失うかもしれない」
同じ病気。
真琴はその言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
「兄ちゃんも、レイさんも……聴こえないの?」
「進行性だ。少しずつ、だんだん。まだ大丈夫。でも、いずれ――」
雅也は言いかけてやめた。
「約束してくれ。誰にも言わないと」
真琴はうなずいた。約束した。
その約束が、後になってすべてを壊すとは、その時の彼女は知らなかった。
連続殺人事件が起きたのは、それから半年後だった。
第一の殺人。ライブハウス「アポロ」。被害者はドラマー。
第二の殺人。ライブハウス「ベートーヴェン」。被害者はベーシスト。
第三の殺人。ライブハウス「シェルター」。被害者はギタリスト。雅也の親友だった。
すべて密室。すべて青酸カリ。現場には必ずハーモニカが落ちていた。
警察は雅也を逮捕した。決定的証拠は「音声ファイル」。雅也の声で「俺が殺した」と録音されたもの。
「そんなの嘘だ」
真琴は新聞記事を握りしめた。
「兄ちゃんがやるわけない」
でも、周りは違った。テレビのワイドショーは「神崎雅也」の名前を連呼した。ネットには「音楽業界の闇」「売るために殺人を犯した若者」などの書き込みが溢れた。
真琴は面会に行った。
面会室は冷たかった。壁は白く、床は無機質な灰色。雅也は向こう側の席に座っていた。手錠はかけられていない。でも、そこにいるだけで囚人だった。
「兄ちゃん」
「真琴」
雅也は泣いていた。二十二歳の青年が、声をあげて泣いていた。
「俺はやってない。あの声は俺の声じゃない。誰かが偽造したんだ。信じてくれるか」
真琴は言った。
「信じてるよ」
それは本当だった。信じていた。
でも――
心のどこかで、「もしや……」と疑った。
たった一瞬。ほんの一瞬の隙。
雅也はその視線を感じ取った。彼の目に、絶望が広がった。
「真琴、まさかお前まで……」
「違うの、兄ちゃん。信じてる。本当に――」
「もういい」
雅也は顔をそらした。
「もう、何も聞かないでくれ」
面会時間は終わった。真琴は席を立つことができなかった。ただ、ガラス越しに兄の横顔を見つめ続けた。
雅也は最後まで、彼女の方を見なかった。
逮捕から二ヶ月後。
雅也は拘置所で首を吊った。
遺書にはこう書かれていた。
『誰も聴いてくれないから、俺も聴くのをやめる』
葬式は小さな斎場で行われた。バンドメンバーも来た。小森は泣いていた。高梨は無表情だった。レイは――何かをこらえるように、唇を噛みしめていた。
式が終わった後、レイが真琴に近づいてきた。
「神崎さん」
「……レイさん」
「ごめん」
それだけ言って、彼は去っていった。
真琴はその「ごめん」の意味が、その時はわからなかった。
でも今はわかる。
レイは知っていたのだ。雅也の無実を。そして――自分の無力を。
あの時、何かをしていれば。もっと早く動いていれば。
その「ごめん」は、自分への呪いだった。
現在。
真琴は目を開けた。
音声ファイルはまだ再生されていた。レイの声が続いている。
「神崎さん。あなたは強い。だから聴ける。五年前、あなたが兄に言った最後の言葉を。『信じられなかった』――いいえ、それはあなたのせいじゃない。誰も悪くない。悪いのは『聴くことをやめた』この世界です」
真琴は涙を拭った。
ファイルの最後に、別の声が入っていた。
自分の声だった。
『お兄ちゃん、ごめんね。私……あなたを信じきれなかった』
五年前。面会室で真琴が雅也に言った最後の言葉。
なぜレイがこれを録音していたのか。
なぜこれを真琴に聴かせるのか。
真琴はパソコンの前に座ったまま、しばらく動けなかった。
兄は無実だった。でも、自分はその瞬間、疑った。たった一瞬。ほんの一瞬の隙。
その一瞬が、今も彼女の心に刺さっている。
「ごめんね、兄ちゃん」
真琴は呟いた。
「でも、もう二度とやめない。今度は最後まで聴くから。たとえ、どんな音でも」
誰もいない部屋で、その声は誰にも届かなかった。
でも、真琴はそれでよかったと思った。
今はまだ。
いつか、必ず届ける。兄の無実を。そして、自分の後悔を。
それまでは、聴き続ける。
誰かのために。自分のために。
第9話 了