
『音の檻』第15話「組織の壁」
#創作大賞2026 #ミステリー小説部門 #ドラマ脚本原案 #少年マンガ原案 #アニメ原案
【目次】
第1話「密室のラスト・コード」
第2話「刑事と記者」
第3話「バンドの亀裂」
第4話「5年前の影」
第5話「音源という名の鍵」
第6話「容疑者たちの夜」
第7話「聴こえない演奏者」
第8話「証言の穴」
第9話「兄の記憶」
第10話「音楽という凶器」
第11話「桐嶋薫の仮面」
第12話「密室の再現」
第13話「第二の犠牲者」
第14話「音の記憶」
第15話「組織の壁」
第16話「五年前の真実」
第17話「崩れるアリバイ」
第18話「二人の選択」
第19話「聴覚という武器」
第20話「黒幕の正体」
第21話「どんでん返し」
第22話「対決」
第23話「真実の音」
第24話「再びステージへ」
警視庁捜査一課の廊下は、いつもと変わらない朝だった。
コーヒーの匂い。書類をめくる音。誰かが大声で電話をしている。音川明人は自分のデスクで、昨日の捜査資料を整理していた。真琴から送られてきた『残響の彼方』の解析データ。五年前の音声ファイルとの比較。明確な差異。編集痕。偽造の証拠。
これで決着できる。そう思っていた。
「音川」
声の主は真壁警部だった。痩せた男。いつも口元を引き締めている。笑った顔を見たことがない。
「はい」
「ちょっと来い」
音川は立ち上がった。真壁の後ろをついていく。廊下の奥、会議室の前で真壁が立ち止まった。
「中に入れ」
中には、警視正の制服を着た男が二人、座っていた。真壁が向かいの席に座る。音川だけが、立ったままだった。
「音川明人刑事。あなたを本日付で捜査から外す」
警視正の一人が淡々と言った。
「理由は」
「独断専行による証拠隠蔽の疑い。具体的には――神崎真琴から受け取ったUSBメモリを正式な証拠品として提出しなかった。また、朝比奈レイから押収した音声ファイルを、許可なく彼女に聴かせた」
音川は息を飲んだ。
「それは――」
「反論があるか」
「USBメモリは、まだ証拠として確立されていませんでした。内容を確認した上で提出する予定でした。音声ファイルについても、彼女は関係者です。協力を得るために――」
「言い訳は結構だ」
真壁が口を開いた。
「お前は五年前と同じ過ちを繰り返している。個人の感情で捜査を歪めている。神崎雅也の時もそうだった。無実の人間を犯人に仕立て上げて――」
「無実だと、あなたは知っていたんですか」
音川の声が鋭くなった。
真壁の目が一瞬、揺れた。だが、すぐに戻った。
「知らん。だが、お前の捜査手法には問題があった。今回も同じだ。今回の事件は別の班が引き継ぐ。お前は自宅待機だ。鍵と銃を預けろ」
音川はポケットから鍵と警察手帳を取り出した。机の上に置く。カチリと音がした。
「お前はいい刑事だった」
真壁が言った。
「だが、思い込みが強すぎた。それが命取りだ」
音川は何も言わなかった。言えることなど、何もなかった。
捜査本部を出ると、外の空気が冷たかった。
音川は自分のデスクに戻った。周りの刑事たちは、彼に気づかないふりをしている。知っているのだ。彼が捜査から外されたことを。誰も声をかけなかった。
彼は自分の私物を段ボール箱に詰めた。ファイル、ペン、ポストイット、コーヒーカップ。五年間使ったデスクから、それらを取り除くのに十分もかからなかった。
「音川さん」
声をかけてきたのは、若い刑事だった。彼の直属の後輩。いつも「先輩」と呼んで慕ってくれていた。
「何だ」
「……何か、できることはありますか」
音川は少し間を置いた。
「真壁警部を調べろ。五年前の事件の捜査記録。特に証拠品の扱い。ハーモニカがリストから外された経緯。それから――」
「それから?」
「榎本由香という女性の行方。五年前の事件の証人だ。彼女が今どこにいるのか、調べてほしい」
若い刑事はうなずいた。
「わかりました。すぐに」
「気をつけろ。誰に聞かれるかわからない」
「はい」
彼は去っていった。音川は段ボール箱を抱えて、捜査本部を後にした。
自宅に戻ると、部屋の中はシンと静かだった。
音川は段ボール箱を机の上に置いた。中からコーヒーカップを取り出す。刑事だった頃の自分が、毎日使っていたもの。
彼はカップを手に取って、しばらく見つめていた。
スマホが震えた。真琴からだった。
「音川さん。今、どこにいますか」
「自宅です。捜査から外されました」
「……真壁警部に」
「ええ。あなたの兄と同じ轍を踏むな、と」
真琴は少し間を置いた。
「あなたはどうするんですか」
「どうもしません。捜査は続けます。ただし、警察の人間としてではない」
「どういう意味です」
「私的な協力者として。あなたの――相棒として」
真琴は答えなかった。代わりに、彼女は言った。
「音川さん、あなたは五年前、兄の声を聴かなかった。でも、今は聴こうとしている」
「……はい」
「それで十分です。私はあなたを信じます」
音川はその言葉に、何も言えなかった。
午後、音川は自宅の机で五年前の資料を広げていた。
真壁警部の捜査記録。逮捕の経緯。証拠品のリスト。そこにはハーモニカの記載がない。誰が外したのか。なぜ外したのか。
当時、真壁は警部補。音川の直属の上司だった。音川が雅也を追い詰めた時、真壁は「これで十分だ」と言った。何かを急いでいた。何かを恐れていた。
もし真壁が黒幕なら――。
音川はその仮説を頭の中で組み立てた。真壁は五年前、誰かに命じられて雅也を犯人に仕立て上げた。その「誰か」は、警察の上層部か。あるいは――
スマホが震えた。若い刑事からだった。
「音川さん。榎本由香という女性の行方ですが――」
「わかったのか」
「生存が確認されました。今は遠方の町で、別の名前で暮らしています。彼女に会いに行きますか」
「行く。場所を送ってくれ」
「わかりました。ただし――」
「何だ」
「彼女は警察を信用していません。あなたが刑事だと言えば、話すことを拒否するかもしれません」
音川は少し考えた。
「大丈夫だ。私はもう刑事ではない」
電話を切った。音川はコートを手に取った。ポケットの中に雅也の遺書が入っている。まだ持っていた。なぜか、捨てられなかった。
玄関のドアを閉める。外の冷たい空気が顔を打つ。
九月の終わり。これから何が始まるのか。
それを知るのは、まだ少し先のことだった。
その夜、音川は真琴に電話を入れた。
「榎本由香という女性の行方がわかりました。五年前の事件の証人です。おそらく、彼女は何かを見ている」
「会いに行くんですか」
「ええ。あなたも一緒に来ますか」
「もちろん」
「ただし、彼女は警察を信用していません。私はもう刑事ではない。だから――」
「だから?」
「あなたは私のことを『元刑事』と紹介してください。それで大丈夫です」
真琴は少し笑った。
「わかりました。『相棒』として」
音川も笑った。久しぶりに笑った気がした。
「明日の朝、駅で待ち合わせましょう」
「はい」
電話を切った。音川はカーテンを開けた。窓の外は真っ暗だ。でも、どこか遠くで明かりが灯っている。
その明かりを目指して、彼は明日、旅立つ。
刑事としてではなく、一人の人間として。
第15話 了