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『音の檻』第4話「5年前の影」


    #創作大賞2026 #ミステリー小説部門 #ドラマ脚本原案 #少年マンガ原案 #アニメ原案


    【目次】
    第1話「密室のラスト・コード」
    第2話「刑事と記者」
    第3話「バンドの亀裂」
    第4話「5年前の影」
    第5話「音源という名の鍵」
    第6話「容疑者たちの夜」
    第7話「聴こえない演奏者」
    第8話「証言の穴」
    第9話「兄の記憶」
    第10話「音楽という凶器」
    第11話「桐嶋薫の仮面」
    第12話「密室の再現」
    第13話「第二の犠牲者」
    第14話「音の記憶」
    第15話「組織の壁」
     第16話「五年前の真実」
    第17話「崩れるアリバイ」
    第18話「二人の選択」
    第19話「聴覚という武器」
    第20話「黒幕の正体」
    第21話「どんでん返し」
    第22話「対決」
    第23話「真実の音」
    第24話「再びステージへ」


     午前零時を過ぎていた。

     音川明人は自宅の机に向かっていた。スーツは脱ぎ、ワイシャツの袖を肘までまくっている。コーヒーカップが三つ。一つは飲みかけ、二つは空。もう何時間もここを離れていない。目の奥が痛む。瞬きをするたびに、瞼の裏が砂を擦ったような感覚があった。

     机の上に広がっているのは、五年前の事件ファイルだ。

     表紙には「連続ライブハウス殺人事件」と印字されている。ページをめくると、被害者の写真が目に入る。三人。すべて二十代前半の男性。死因は青酸カリ中毒。現場はすべて密室。遺体のそばには必ずハーモニカが落ちていた。

    ――そして、被疑者欄。

    「神崎雅也」。

     二十二歳。ギタリスト。

     音川はその写真を見つめた。雅也はカメラをまっすぐ見ている。口元はわずかに歪んでいる。泣いているのか、笑っているのか、それとも――どちらでもないのか。

    「やってない」

     音川は呟いた。声は部屋の静けさに吸い込まれた。

     彼はコーヒーカップに手を伸ばした。中身はもう冷めていた。苦味だけが残っている。それを一口飲んで、机の上に戻した。

     雅也はそう言った。何度も何度も。取調室で、弁護士面会で、そして――遺書でも。

     音川はポケットから一枚の紙を取り出した。折りたたまれて、四隅が擦り切れている。雅也の遺書だ。もう五年も持ち歩いている。警察手帳ではない、別のポケットに。誰にも見せたことはない。

    『俺はやってない。でも誰も聴いてくれない。だから聴くのをやめる』

     聴くのをやめる。

     音川はその文字を指でなぞった。インクは薄れている。書いた本人の手も、もうこの世にはない。

     彼は遺書を机の上に置いた。コーヒーの染みができている。慌てて拭ったが、紙は少し濡れていた。――しまった、と思った。でも、もうどうしようもなかった。

     フラッシュバックが始まったのは、その時だった。

     五年前。音川は二十八歳。

     連続ライブハウス殺人事件は、世間を騒がせていた。三人目の遺体が見つかった時点で、捜査本部は焦りを募らせていた。マスコミは連日記事を書き、警察の上層部は早期解決を急いでいた。テレビのワイドショーでは「警察の無能」を批判するコメンテーターの声が毎晩のように流れていた。

     音川はその焦りを、誰よりも近くで感じていた。彼は若くして捜査の中核を任されていた。優秀だったからだ。早く結果を出さなければならない。そのプレッシャーが、彼の判断を少しずつ歪めていった。

     第一の殺人。ライブハウス「アポロ」。

     被害者はドラマー、二十三歳。遺体は楽屋のソファに座った状態で発見された。死因は青酸カリ中毒。ドアには内側からチェーンロック。窓は施錠済み。完全な密室。遺体のそばに、銀色のハーモニカ。

     音川はその現場で、初めて「殺人現場」というものを見た。血はなかった。もがいた跡もなかった。ただ、ソファに座ったままの男が、目を開けて、口元に泡を浮かべているだけだった。

     あまりに静かな死に方だった。それがかえって不気味だった。

     第二の殺人。ライブハウス「ベートーヴェン」。

     被害者はベーシスト、二十四歳。手口は同じ。密室。青酸カリ。ハーモニカ。遺体の表情は、苦悶ではなく、むしろ安らかだった。第一の被害者も同じだったと、鑑識が言っていた。

     第三の殺人。ライブハウス「シェルター」。

     被害者はギタリスト、二十五歳。同じ手口。しかし、この現場だけが少し違っていた。遺体のそばに、ハーモニカ以外のものが落ちていた。ピック。ギターピック。黒色の、普通のもの。

     誰のものかはわからなかった。

     三人とも、異なるバンドに所属していた。接点はなかった。ただ一つを除いて――すべての現場に、同じハーモニカが落ちていたこと。

     音川は第三の殺人の現場にいた。遺体のそばに落ちていたハーモニカを、鑑識がビニール袋に入れるのを見ていた。銀色の、くすんだ表面。使い込まれている。

    「またか」

     誰かの声。音川はそれを「同じ犯人の仕業だ」という意味だと受け取った。当時は。

     でも今思えば、その声には別の含意があったのかもしれない。

    ――また、か。

     誰かが、そう言ったのだ。

     捜査が進むにつれ、一人の男の名前が浮かび上がった。

     神崎雅也。

     彼は第三の被害者と同じライブハウスで演奏していた。当日、彼は「練習がある」と言って、ライブには出演していなかった。しかし、防犯カメラには彼が現場付近を歩く姿が映っていた。時刻は犯行時間帯と一致していた。

    「決定的だ」

     真壁警部はそう言った。当時、真壁は警部補。音川の直属の上司だった。痩せた男だった。いつも口元を引き締めていて、笑った顔を見たことがなかった。

    「でも、まだ」

     音川は言いかけた。まだ決定的な証拠が必要だ。防犯カメラの映像は、彼が現場に「いた」ことを示すだけだ。殺したことにはならない。

    「十分だ。音川、お前は優秀だから、つい調べすぎる。でも、時には決断も必要だ」

     真壁の声は穏やかだった。しかしその目の奥には、何か別のものがあった。切迫感。焦り。あるいは――恐怖。

     音川はその言葉を信じた。

     決断。

     彼は雅也の身元を徹底的に洗った。経歴、交友関係、金銭問題。何か出てくるはずだった。しかし、何も出てこなかった。雅也には動機がなかった。誰を恨むでもなく、金に困るでもなく、ただバンドでギターを弾いているだけの青年だった。

     それでも音川は止めなかった。止められなかった。

     そして、決定的証拠が現れた。

     音声ファイルだった。現場の防犯カメラの近くに設置されていたボイスレコーダーに、犯行時刻の音声が録音されていた。

     再生すると、聞こえてきたのは雅也の声だった。

    「俺が殺した。全部、俺だ」

     音川はその音声を何度も聴いた。雅也の声だった。間違いなかった。声紋鑑定でも「本人の可能性が極めて高い」という結果が出た。

     雅也は「それは自分の声じゃない」と主張した。誰かが偽造したのだと。

     でも音川は信じなかった。信じたくなかった。これだけの証拠が揃っているのに、まだ迷っている自分が許せなかった。

    「脅迫状のようなものだ。犯人は自白を強要された」

     音川はそう結論づけた。それ以外に説明がつかなかった。雅也の声が録音されている。でも雅也はやっていないと言う。ならば、誰かが彼の声を無理やり録音したのだろう。あるいは――

     あるいは、何か。

     音川は深く考えなかった。

     雅也は泣いた。

     取調室で、手錠をかけられたまま、彼は声をあげて泣いた。二十二歳。音川より六歳若い。まだ少年のような顔をしていた。

    「お願いです。聴いてください。俺はやってない。あれは俺の声じゃない」

    「では、誰の声なんですか」

    「わからない。でも、俺じゃない」

    「音声鑑定の結果は出ています」

    「間違ってる。絶対に間違ってる」

     音川はため息をついた。どの容疑者もそう言う。無実を主張するのは当たり前だ。

    「協力してください。そうすれば、罪は軽くなります」

    「軽くなる? 俺はやってないんだ。罪なんてない」

     雅也は机に突っ伏した。肩が震えていた。

     音川はその背中を見ながら、ペンを回していた。

     あの時、自分は何を考えていたのか。今となっては思い出せない。「早く終わらせたい」と思っていたような気がする。それとも「これで終わりだ」と安堵していたのか。

     どちらにしても、あの時、彼は雅也の声を「聴いて」いなかった。

     逮捕から二ヶ月後。

     雅也は拘置所で首を吊った。

     遺書にはこう書かれていた。

    『俺はやってない。でも誰も聴いてくれない。だから聴くのをやめる』

     音川はその知らせを電話で受けた。受話器を置いた後、しばらく何も考えられなかった。机の上には別の事件の書類が積まれていた。彼はそれらをどかして、自分の拳を見つめた。

     何かが違った。

     何かが、決定的に。

     でも、それを認めるわけにはいかなかった。認めたら、自分は何のために刑事をやっているのかわからなくなるから。

     現在の時間軸に戻る。

     音川はファイルの三ページ目を開いていた。証拠品リスト。ハーモニカの欄は空欄だった。

     なぜか。

     彼は背もたれに寄りかかり、天井を見上げた。部屋の電気が少し眩しい。目を閉じる。瞼の裏に、当時の映像が次々と浮かんでは消えた。

     ハーモニカは証拠品として押収されたはずだ。なのにリストにない。どこの馬鹿がそんなことを——自分か? それとも真壁か?

     音川は当時の資料を漁った。防犯カメラの映像記録。それを見た記憶はある。でも、音声は——あるのか?

     あった。

     防犯カメラの映像には、音声も録音されていた。犯行時間帯の数分間。かすかに、何かの音が入っている。

     音川は当時の記録メモを読み返す。そこには「雑音」「意味なし」と書かれていた。自分の字だった。自分が「意味なし」と判断したのだ。

     でも、今の耳で聴けば——違うかもしれない。

     あの音は、何かを伝えようとしていたのかもしれない。誰かの声。あるいは——ハーモニカの音。

     音川はその音声データを探した。CD-R。保存されていたはずだ。ファイルケースを漁る。三分後、ようやく見つけた。ディスクには「第三現場・防犯カメラ音声」とマジックで書かれている。

     パソコンに挿入する。データを開く。

     ノイズが多い。ブーンという低い音。その中に、かすかに——何かが混じっている。

     音川はボリュームを最大にした。スピーカーからホワイトノイズが流れる。その中で、かすかに。

     ピーーーーーーーーーーー。

     長い、高い音。

     その直後、短い断続的な音。

     タン、タンタン、タン——

     ハーモニカだった。

     音川は背筋が凍った。

     現場にハーモニカの音が録音されていた。それなのに、当時の自分は「意味なし」と判断した。聴こうとしなかった。誰も。

    「馬鹿なことをした」

     音川は両手で顔を覆った。

     もしこの音を当時誰かが聴いていれば——そして「これはハーモニカの音だ」と気づいていれば——捜査は別の方向に進んでいたかもしれない。雅也は逮捕されなかったかもしれない。死ななかったかもしれない。

     机の上に置かれた雅也の遺書が、コーヒーの染みで波打っている。

    『誰も聴いてくれない』

     音川はその文字を読んだ。

    ——ごめん。

     心の中で言った。

    ——ごめんなさい。

     真壁警部の声が蘇る。

    「これで十分だ。早く逮捕しろ。上からも圧力がかかっている」

     なぜ、真壁はそんなに急いでいたのか。

     音川はその疑問を、今初めて抱いた。「上からの圧力」——それは本当に「上」からだったのか。それとも、誰か別の——

     午前一時過ぎ。

     窓の外は真っ暗だ。部屋の中はコーヒーの苦い匂いと、古い書類の埃の匂いが混ざっている。

     音川はカーテンを開けた。向かいのマンションの灯りは、ほとんど消えている。

     その時、スマホが震えた。

     真琴からの着信だった。

    「音川刑事」

     彼女の声は少し掠れていた。

    「レイの日記を読みました。あの曲のことが書いてありました。『残響の彼方』を聴いてほしい、と」

     音川は背筋を伸ばした。コーヒーカップが倒れて、机に染みを作ったが、気にしなかった。

    「なぜその曲なんですか」

    「会って話せませんか。今すぐ」

     時計を見る。午前一時二十三分。

     真琴はなぜこんな時間に。なぜ『残響の彼方』なのか。あれは五年前、雅也が最後に演奏した曲だ。レイはなぜ真琴にそれを聴いてほしいと言い残したのか。

    「わかりました。どこにいますか」

    「駅前のファミリーレストラン。あなたの近くの」

    「十五分で着きます」

     音川は通話を切り、コートを手に取った。ポケットの中に、雅也の遺書がまだ入っていることに気づいた。

     取り出そうか迷った。

     でも、そのままにした。

     持っていくことにした。なぜかはわからない。ただ、そうしなければならない気がした。

     玄関のドアを閉める。

     夜の冷たい空気が顔を打つ。九月の終わりは、もう秋の匂いがする。

     音川は歩き出しながら、もう一度考えていた。

     五年前、彼は「聴く」ことをやめた。雅也の声を、ハーモニカの音を、そして自分自身の疑念さえも。

     真琴は聴くことをやめなかった。五年前、兄を信じ続けた。そして今も。

     レイは真琴に『残響の彼方』を聴いてほしいと言い残した。あの曲に、何かが隠されているのか。五年前の真実が。

     音川は歩調を早めた。

     今回は。

     今回は、最後まで聴くつもりだった。

     たとえ、それがどんな音であっても。

    第4話 了



     
     
    日本映画学校出身。劇場映画・テレビアニメの編集を経て、映像・Web・音楽をワンストップで手がけて25年。SF/ミステリー小説・脚本原案を執筆中。noteでは映像編集ノウハウと創作の記録を発信。

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