
『音の檻』第7話「聴こえない演奏者」
#創作大賞2026 #ミステリー小説部門 #ドラマ脚本原案 #少年マンガ原案 #アニメ原案
【目次】
第1話「密室のラスト・コード」
第2話「刑事と記者」
第3話「バンドの亀裂」
第4話「5年前の影」
第5話「音源という名の鍵」
第6話「容疑者たちの夜」
第7話「聴こえない演奏者」
第8話「証言の穴」
第9話「兄の記憶」
第10話「音楽という凶器」
第11話「桐嶋薫の仮面」
第12話「密室の再現」
第13話「第二の犠牲者」
第14話「音の記憶」
第15話「組織の壁」
第16話「五年前の真実」
第17話「崩れるアリバイ」
第18話「二人の選択」
第19話「聴覚という武器」
第20話「黒幕の正体」
第21話「どんでん返し」
第22話「対決」
第23話「真実の音」
第24話「再びステージへ」
裏口のドアが開き切るまで、誰も動かなかった。
そこに立っていたのは、バンドの元マネージャー、沢渡修司だった。五十路を過ぎた男。痩せていて、背筋は伸びている。彼の右手には、銀色のハーモニカが握られていた。
「沢渡さん」
小森が最初に声を出した。緊張が解けたのか、それとも別の何かが上書きされたのか、彼の声は少しだけ掠れていた。
「なぜあなたが」
「俺も呼ばれた」
沢渡は短く言った。彼の目は五人を順に見渡した。誰かを探しているようでもあり、誰も見ていないようでもあった。
「誰が呼んだんだ」
高梨の声が鋭かった。彼は沢渡から視線を外さず、半歩前に出ていた。
「わからん。メールだ。レイのハーモニカを持っているから、これを持ってB-7に来いと」
「そのハーモニカは」
真琴が訊いた。声は思ったより出ていた。
「レイが預けたものです。死んだら、あなたに渡してほしいと」
沢渡はハーモニカを机の上に置いた。銀色の表面が、外灯の光を反射する。第1話の現場で見たものと同じだった。同じメーカー。同じ使い込まれた感じ。
「なぜ私に」
「それは…」
沢渡は言いかけて、やめた。彼の口元がわずかに歪んだ。何かを飲み込む仕草だった。
「わからん。ただ、そう言われただけだ」
沈黙が落ちた。
誰が呼んだのか。その問いを、誰も口にしなかった。口にしても答えが出ないとわかっていたからかもしれない。
真琴はその時、桐嶋を見ていた。
彼は他の四人とは少し離れた場所に立っていた。壁にもたれて、腕を組んでいる。補聴器が赤く光っていた。その顔に驚きはなかった。他の者のような困惑も、警戒も、苛立ちも。
ただ、そこにいるだけ。
まるで、最初からこの結末を知っていたかのように。
「とにかく」
沢渡が言った。
「今日はもう遅い。話は明日にしましょう。ここで何を話しても、答えは出そうにない」
小森は何か言いかけたが、やめた。高梨は舌打ちをして、背を向けた。
桐嶋はゆっくりと壁から離れた。彼は誰にも挨拶をせず、路地の奥へ歩き出した。
真琴はその後ろ姿を見送った。
この男は何を知っているのか。あの笑い声の主は彼なのか。それとも――
真琴は一人、路地に残った。
他の者はもう帰ってしまった。沢渡は「気をつけて帰れ」と言い残して去った。小森は何か言いたそうな顔をしていたが、結局何も言わなかった。
彼女はハーモニカを手に取った。冷たい。重い。使い込まれた表面には細かい傷が無数についている。
何年も吹き続けなければつかない傷だ。
レイはハーモニカを吹かない。では、誰が吹いていたのか。
「まだいたのか」
声がした。振り返ると、桐嶋がそこに立っていた。彼は帰っていなかった。路地の影の方で、ずっと何かをしていたらしい。
「桐嶋さんこそ」
「少し考え事をね」
彼は真琴の隣に立った。距離が近い。真琴は無意識に半歩下がった。
「そのハーモニカ、見せてください」
真琴は彼に渡した。桐嶋はハーモニカを手のひらに乗せて、しばらく見つめていた。
「知っています。このハーモニカ」
「知ってるんですか」
「ええ。レイがいつも持っていました。彼は吹けなかったけど、吹ける人がいるから、その人のために持っていた」
「誰ですか」
桐嶋は答えなかった。彼はハーモニカを口元に当てた。
ふう、と息を吹き込んだ。音は出なかった。彼は吹くつもりはなかったらしい。ただ、その感触を確かめたかっただけなのだ。
「桐嶋さん」
「何ですか」
「あなたは、あの日、楽屋の近くにいましたか」
「いいえ。先ほども言いました。私はすぐに外に出ました」
「それじゃあ、なぜ」
「なぜ、何です」
真琴は言いかけてやめた。なぜ、あなたの手に傷があるのですか。なぜ、あなたは補聴器をつけているのに、音を外すレイのことを「音程がズレている」と表現できるのですか。
音程は「聴こえない」とわからないはずだ。難聴者は「音程がズレている」とは言わない。「なんか変だ」と言う。
桐嶋は「音程がズレている」と、正確に言った。
あの時、第3話の事務所で。
彼は音を聴き分けている。補聴器があっても。
「あの、桐嶋さん」
「何です」
真琴は聞く勇気が出なかった。代わりに別の質問をした。
「あなたは、レイから何か預かりましたか」
「預かりました」
桐嶋はすぐに答えた。躊躇がなかった。
「何を」
「教えられません。約束ですから」
彼はそう言って、ハーモニカを真琴に返した。そして背を向けた。
「桐嶋さん」
「おやすみなさい、神崎さん。今日はもう遅い。明日、またお会いしましょう」
彼は歩き出した。その背中は、少しだけ震えているように見えた。
真琴はアパートに戻り、パソコンの前に座っていた。
午前四時。もうすぐ朝になる。
彼女は桐嶋との会話を思い出していた。一つ一つの言葉を反芻する。
「音程がズレている」
「レイから預かりました」
「教えられません」
そして、最後に彼の背中が見せた震え。
彼は何かを知っている。何かを隠している。でも、それを話せない理由がある。
まるで自分みたいだ。
真琴はスマホを手に取った。沢渡の連絡先を探す。あった。電話をかけようか迷った。でもやめた。今はもう遅い。明日でいい。
彼女は机の引き出しを開けた。USBメモリ。レイが隠した音声ファイル。
もう一度再生しようか迷った。
でも、できなかった。兄の悲鳴を、もう一度聴く勇気がなかった。
真琴は引き出しを閉じた。
外が白み始めていた。
その頃。
桐嶋薫はアパートの屋上に立っていた。
彼は補聴器を外していた。風の音が直接耳に入ってくる。低い、唸るような音。
あのハーモニカ。レイが大事にしていたハーモニカ。沢渡に預けたのは正しかったのか。
彼はポケットからUSBメモリを取り出した。レイから受け取ったもの。中にはあの音声ファイルが入っている。真琴が持っているものと同じ。
「神崎さん。あなたはあの声を聴いてしまった。これであなたも…」
呟きは風に消えた。
彼は夜空を見上げた。星は一つも見えなかった。街の灯りが空を汚している。
「ごめん、レイ。俺は何もできなかった。これからも、何もできないかもしれない」
補聴器をもう一度装着する。
カチッ。
音が戻る。車の走る音。誰かの足音。遠くの喧噪。
そして――
『これでお前も俺の仲間だ』
あの声が、いつものように頭の中に響いた。
桐嶋は目を閉じた。
もう戻れない。
最初から、戻る場所なんてなかったのだ。
第7話 了