
『音の檻』第11話「桐嶋薫の仮面」
#創作大賞2026 #ミステリー小説部門 #ドラマ脚本原案 #少年マンガ原案 #アニメ原案
【目次】
第1話「密室のラスト・コード」
第2話「刑事と記者」
第3話「バンドの亀裂」
第4話「5年前の影」
第5話「音源という名の鍵」
第6話「容疑者たちの夜」
第7話「聴こえない演奏者」
第8話「証言の穴」
第9話「兄の記憶」
第10話「音楽という凶器」
第11話「桐嶋薫の仮面」
第12話「密室の再現」
第13話「第二の犠牲者」
第14話「音の記憶」
第15話「組織の壁」
第16話「五年前の真実」
第17話「崩れるアリバイ」
第18話「二人の選択」
第19話「聴覚という武器」
第20話「黒幕の正体」
第21話「どんでん返し」
第22話「対決」
第23話「真実の音」
第24話「再びステージへ」
鍵は、レンタルロッカーのものだった。
真琴は鍵のメーカーと刻印された番号をもとに、その鍵が使われている可能性のある駅を調べた。候補は七つ。電車で四十分の小さな駅。ロッカーを一つ一つ確認していき、三つ目でようやく一致した。
ロッカーを開けると、中には紙の束が一つだけ入っていた。
桐嶋薫の医療カルテだった。
真琴はその場で開いた。表紙には病院名と患者番号。中をめくると、診断名が記されている。
「両側性感音性難聴・進行性。補聴器装用。心理療法継続中」
桐嶋も難聴だった。レイや雅也と同じ進行性難聴。でも彼はそれを隠していた。補聴器を「音楽用のイヤモニ」と偽って。
真琴はさらにページを進めた。最後のページ。主治医の所見欄。
そこにはこう書かれていた。
『患者は「自分が五年前の事件の真犯人かもしれない」という強迫観念を訴える。根拠はないが、ある「音」を聴くとその感覚に襲われるという。音響性幻聴の可能性あり。経過観察が必要。』
真琴はカルテを閉じた。手が震えていた。
桐嶋は「自分が犯人かもしれない」と怯えていた。強迫観念として。でも、それが本当に強迫観念なのか。それとも――
桐嶋のアパートは、駅から歩いて十分の古い建物だった。
真琴はインターホンを押した。返事はない。彼はまだ帰っていないのか。それとも――
彼女はしばらく待った。夜風が冷たい。九月の終わりは、もうすっかり秋の気配だ。
三十分後、桐嶋が帰ってきた。彼は真琴を見て、一瞬驚いた表情を見せた。でもすぐに、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。
「神崎さん。どうしたんですか、こんな遅くに」
「話があります」
「……わかりました。中へどうぞ」
部屋は狭かった。ベッドと机と本棚。楽器はない。ギターはどこかに置いてあるのかもしれない。でも、この部屋の中には見当たらなかった。
桐嶋は椅子を一つ差し出した。自分はベッドの縁に座る。
「何の話です」
真琴はカルテを机の上に置いた。
桐嶋の顔色が変わった。
「あなたも難聴なんですね。レイさんや兄と同じ」
桐嶋は何も言わなかった。
「そして――自分が犯人かもしれないと思っている」
沈黙が落ちた。壁の時計の音だけが、規則正しく部屋に響いている。
桐嶋はゆっくりと立ち上がった。彼は補聴器を外した。机の上に置く。カチッという小さな音。
「……聴こえましたか」
彼の声は、少しだけ掠れていた。
「あなたも、あの『声』を」
「あの声?」
「『これでお前も俺の仲間だ』」
真琴は息を飲んだ。それは第5話で聴いたファイルの最後の言葉と同じだった。
「なぜそれを」
「レイからUSBをもらいました。『もし自分に何かあったら、これを聴いてほしい』って」
桐嶋は机の引き出しからUSBメモリを取り出した。真琴がギターの裏板から見つけたものと同じ。同じファイルが入っている。
「聴いてしまった。あの声を。そしたら――もう戻れなくなった」
「戻れない?」
「あの声が頭の中から離れない。眠っているときも、起きているときも。『これでお前も俺の仲間だ』――俺は何の仲間なんだ。犯人の仲間なのか。それとも被害者の仲間なのか」
桐嶋は両手で顔を覆った。彼の肩が震えている。
「あなたに非通知でメッセージを送ったのも私です」
「……なぜ」
「守りたかった。あなたを。あのファイルを聴いたら、あなたも『あの声』の標的になる。だから『聴くな』と。でも、あなたは聴いた。もう遅い」
「標的って、誰が」
桐嶋は顔を上げた。その目はどこか遠くを見ていた。
「『あの声』の主です。五年前の事件の真犯人。そして――レイを殺した犯人」
「誰なんです」
「名前は言えない」
「なぜ」
「言ったら殺される。あなたも、私も」
真琴は一歩踏み出した。
「桐嶋さん、あなたは自分のことを『犯人かもしれない』と言った。でも、それは強迫観念なんですよね。あなたは何もやっていない」
「……わからない」
「わからない?」
「あの声を聴くと、自分がやったような気がする。でも、記憶がない。自分がどこにいたのか、何をしていたのか。あの日の夜――まるで抜けている」
記憶の抜け落ち。それは真琴の兄と同じ症状だった。雅也も言っていた。「あの日の夜、何をしていたか覚えていない」と。
「桐嶋さん、あなたは操られているのかもしれない」
「操られる?」
「音で。『残響の彼方』には誰かの記憶を書き換える効果がある。あなたはあの曲を聴かされたんじゃないですか」
桐嶋はしばらく黙っていた。そして、小さな声で言った。
「警察の中に、レイに協力する者がいた」
「え?」
「面会室の録音。あれは警察の中の人間がいなければできない。誰かは言えない。でも――」
彼は真琴の目を見た。
「あなたももう気づいているかもしれない。誰が『音』を操れるのか」
真琴の頭の中に、真壁警部の顔が浮かんだ。五年前、雅也を逮捕するよう急いだ男。証拠品リストからハーモニカを外した可能性がある男。
「真壁――」
言いかけた時、窓ガラスが割れた。何かが部屋に飛び込んできた。鈍い音。真琴は反射的にしゃがみ込む。
桐嶋の声がした。「神崎さん、伏せて!」
次の瞬間、何かが床に落ちる音。桐嶋が倒れた。
「桐嶋さん!」
彼は呻いた。「……大丈夫です。かすっただけ」
でも、血は止まらない。真琴は服の裾を裂いて、彼の頭に押し当てた。
「誰です。今の」
「……わからない。でも――」
桐嶋は息を切らしながら言った。
「私が話しすぎたからだ。『あの声』の主は、私を黙らせに来た」
「警察に連絡します」
「やめてください」
桐嶋の声が強くなった。
「警察の中に協力者がいる。誰を呼べばいいのかわからない。あなたも気をつけて――もう、あなたも標的だ」
真琴はスマホを握りしめた。でも、誰に電話すればいいのか。
音川? 彼はまだ信じられるのか。それとも――
桐嶋が小さく笑った。
「レイは言っていた。『お前は犯人じゃない。でも自分で証明しなきゃならない』って。俺は証明できるのかな。自分が犯人じゃないって」
真琴は答えられなかった。
ただ、彼の頭から流れる血を押さえ続けることしかできなかった。
救急車を呼ぶべきか。それとも――
その時、スマホが震えた。音川からだった。
「神崎さん。今、どこにいますか」
「桐嶋さんのアパートです。彼が――襲われた」
「何ですって」
「早く来てください」
電話を切った。真琴は桐嶋の血で染まった手を見つめた。
九月の終わりの夜は、これから長く続く。
誰も、その先に何が待っているのかを知らなかった。
第11話 了