
『音の檻』第24話「再びステージへ」
#創作大賞2026 #ミステリー小説部門 #ドラマ脚本原案 #少年マンガ原案 #アニメ原案
【目次】
第1話「密室のラスト・コード」
第2話「刑事と記者」
第3話「バンドの亀裂」
第4話「5年前の影」
第5話「音源という名の鍵」
第6話「容疑者たちの夜」
第7話「聴こえない演奏者」
第8話「証言の穴」
第9話「兄の記憶」
第10話「音楽という凶器」
第11話「桐嶋薫の仮面」
第12話「密室の再現」
第13話「第二の犠牲者」
第14話「音の記憶」
第15話「組織の壁」
第16話「五年前の真実」
第17話「崩れるアリバイ」
第18話「二人の選択」
第19話「聴覚という武器」
第20話「黒幕の正体」
第21話「どんでん返し」
第22話「対決」
第23話「真実の音」
第24話「再びステージへ」
数日後。
それから数ヶ月が経った。
十月が終わり、十一月が過ぎ、十二月が来て、年が明けた。真壁警部の自首。神崎雅也の冤罪認定。そのニュースは大きく報じられたが、時間と共に人々の記憶から薄れていった。
真琴は音楽ライターの仕事を続けている。新しいバンドのインタビュー。ライブのレビュー。編集者との打ち合わせ。兄の無実が証明された今も、彼女の日常は大きくは変わっていない。
ただ一つ違うのは——もう、聴くことをやめていないということ。
兄の声を。レイの声を。桐嶋の声を。真壁の声を。そして——自分自身の声を。
でも、それだけだった。特別な何かが始まったわけではない。真琴はまだ、自分から「発信」することはできずにいた。
三月のある日、真琴は久しぶりにライブハウス「B-7」を訪れた。
ここで全てが始まった場所。レイが殺された場所。そして、兄が最後に演奏した場所。
外観は何も変わっていない。錆びついた看板。薄暗い路地。壁には新しいバンドのフライヤーが貼られている。知らない名前。知らない誰かの写真。
真琴は入り口の前で立ち止まった。中から音楽が聞こえてくる。新しいバンドの演奏。若いエネルギー。でも、彼女の耳には——どこか懐かしい音も混ざっていた。
「神崎さん」
声をかけられた。振り返ると、音川明人が立っていた。彼はコートを着ている。ネクタイはしていない。もう刑事ではないのだ。
「音川さん。どうしてここに」
「……あなたと同じです。何となく」
彼は少し笑った。真琴も笑った。
「お互い、何となくですか」
「何となくです」
二人は並んで、しばらく音楽を聴いていた。言葉はなかった。でも、それでよかった。
「音川さん。あなたは——刑事を辞めて、後悔していますか」
「いいえ」
音川はすぐに答えた。
「私にとって大事なのは、警察手帳じゃない。真実です。それを教えてくれたのは——あなたです」
「私は何も」
「あなたは教えてくれた。聴くことの大切さを。たとえ、それが何も変わらなくても。たとえ、誰も聴いてくれなくても」
真琴はその言葉を繰り返した。誰も聴いてくれなくても。兄はそう言った。『誰も聴いてくれないから、俺も聴くのをやめる』と。
でも——違う。聴く人はいる。たとえ一人だけでも。
「音川さん。これからも、真実を追い続けますか」
「ええ。たとえ、どこまでも」
「では、私も」
二人は握手をした。固く、短く。それが、すべての始まりだった——いや、続きだった。
ライブハウスを出ると、外の空気は冷たかった。三月の終わりは、まだ春の気配が遠い。
「神崎さん」
「何ですか」
「あなたは——これから、どうするんですか」
真琴は少し考えた。
「……まだ、わかりません。でも、もう聴くことをやめない。それだけは決めています」
「それで十分です」
音川はうなずいた。
「それで、十分」
彼は去っていった。その後ろ姿を、真琴はしばらく見送っていた。
帰宅後、真琴は机の前に座った。
窓の外は暗い。もうすぐ夜が明ける。三月の終わり。四月が来ようとしている。
彼女は机の引き出しを開けた。中には、あの日しまったイヤホンが入っている。レイのファイルを聴いた時につけていたもの。兄の声を聴いた時につけていたもの。あの日——しまったもの。
兄の記憶をたどった夜。彼女はこのイヤホンを手に取り、しばらく見つめた後、引き出しにしまった。
あの時は、まだ聴く勇気がなかった。聴くことをやめてしまっていた。
でも、今は違う。
真琴はイヤホンを手に取った。しばらく見つめていた。そして——机の上に置いた。
しまわない。
もう、しまわない。
彼女はイヤホンを手に取ったまま、窓の外を見た。空は曇っている。でも、その雲の向こうには——必ず太陽がある。
「兄さん」
真琴は呟いた。
「あなたの声は、ちゃんと聴こえているよ。今も——これからも」
答えは返ってこなかった。でも、それでよかった。
彼女は静かに息を吸った。そして、イヤホンを耳に当てた。
まだ音楽は流れていない。
でも、いつか——必ず。
真琴は目を閉じた。
その瞬間、彼女の心の中に、兄のギターの音が聞こえた気がした。優しい、温かい音。
幻聴かもしれない。気のせいかもしれない。
でも、それでよかった。
彼女はイヤホンを耳につけたまま、窓の外を見続けた。空は少しずつ明るくなっている。今日という一日が始まろうとしている。
これからも、続いていく。
真琴の日常が。音川の日常が。そして——この物語が。
たとえ、誰にも語られなくても。たとえ、誰にも聴かれなくても。
真琴はそのことを、静かに受け入れていた。
彼女はイヤホンを外した。机の上に置く。しまわない。これからも、いつでも取り出せる場所に。
「ありがとう、兄さん」
真琴は立ち上がった。カーテンを開ける。朝日が差し込む。暖かい。
「ありがとう、レイさん。ありがとう、桐嶋さん。ありがとう、真壁さん。そして——ありがとう、音川さん」
誰もいない部屋で、彼女は静かに呟いた。
その声は、誰にも届かない。
でも、それでよかった。
いつか、必ず——誰かの耳に届く日が来る。
真琴はそう信じていた。
第24話 了(終)