
『音の檻』第23話「真実の音」
#創作大賞2026 #ミステリー小説部門 #ドラマ脚本原案 #少年マンガ原案 #アニメ原案
【目次】
第1話「密室のラスト・コード」
第2話「刑事と記者」
第3話「バンドの亀裂」
第4話「5年前の影」
第5話「音源という名の鍵」
第6話「容疑者たちの夜」
第7話「聴こえない演奏者」
第8話「証言の穴」
第9話「兄の記憶」
第10話「音楽という凶器」
第11話「桐嶋薫の仮面」
第12話「密室の再現」
第13話「第二の犠牲者」
第14話「音の記憶」
第15話「組織の壁」
第16話「五年前の真実」
第17話「崩れるアリバイ」
第18話「二人の選択」
第19話「聴覚という武器」
第20話「黒幕の正体」
第21話「どんでん返し」
第22話「対決」
第23話「真実の音」
第24話「再びステージへ」
数日後。
警視庁の廊下は、いつもと変わらない日常に包まれていた。コーヒーの匂い。書類をめくる音。誰かが電話で話している。
音川明人はその廊下の片隅に立っていた。彼はもう刑事ではない。でも、ここに来る理由があった。
掲示板に一枚の紙が貼られている。
『神崎雅也事件の再調査結果について』
短い文章だった。五年前に起きた連続殺人事件。被疑者とされた神崎雅也。しかし、その後の調査で、彼の無実が確認された。真犯人は別に存在する。現在、捜査中——。
音川はその紙を何度も読んだ。五年前、自分が逮捕した男の名前。自分が「やってない」という声を聴かなかった男の名前。その男が、今——無実になった。遅すぎたけれど。でも、間違っていなかった。
彼はその紙を写真に撮った。真琴に送るため。でも、今はまだ。自分の言葉で伝えたかった。
廊下のベンチに座る。誰も近くにいない。彼はスマホを手に取った。
真琴の番号を押す。コール音が一回、二回、三回——
「もしもし」
彼女の声は少し掠れていた。
「神崎さん。発表がありました」
「……発表?」
「あなたの兄の——冤罪が認定されました」
電話の向こうで、真琴が息を飲む音がした。音川はそれ以上、何も言わなかった。何も言う必要がなかった。
しばらくの沈黙。五秒。十秒。もしかしたらもっと長かったかもしれない。
「……ありがとうございます。音川さん」
彼女の声は震えていた。でも、泣いてはいなかった。
「あなたのおかげです。あなたが——聴くことをやめなかったから」
「私は何も」
「あなたは聴いた。あなたの兄の声を。レイの声を。桐嶋の声を。そして ——真壁の声を。それだけです。それだけで十分です」
真琴は何も言わなかった。でも、その沈黙が答えだった。
「これから、どうしますか」
音川が訊いた。
「……兄の墓に行きます。報告を。『あなたは無実だった』って」
「そうしてください」
「音川さんは?」
「私は——」
音川は少し間を置いた。
「私は、これからも真実を追います。たとえ、誰を傷つけても」
「それは——」
「ええ。あなたと同じです」
真琴は少し笑ったようだった。
「相棒ですね」
「……ええ。相棒です」
電話を切った。音川はスマホをポケットにしまった。
廊下には相変わらず、いつも通りの日常が流れている。誰も彼のことを気にしない。誰も、この瞬間に何が起きたのかを知らない。
でも、それでよかった。音川はそう思った。
その夜、音川は自宅の机に向かっていた。
引き出しを開ける。中には雅也の遺書がしまってある。もう持ち歩く必要はない。でも、捨てることもできなかった。
『誰も聴いてくれないから、俺も聴くのをやめる』
彼はその言葉を読んだ。何度も。何度も。
五年前、自分はこの声を聴かなかった。聴こうとしなかった。
でも、今は——ちゃんと聴こえる。
「あなたの声は、届いていましたよ」
音川は呟いた。
「ただ、聴く人がいなかっただけです。でも、今は——」
彼は遺書を封筒に戻した。引き出しの奥にしまう。
もう、見る必要はない。
でも、忘れることもない。
翌朝、音川は墓参りに行くことにした。
雅也の墓。真琴が行くと言っていた。でも、自分も行くべきだと思った。謝罪を。報告を。そして——約束を。
彼は駅に向かって歩き出した。九月の終わり。もうすぐ十月になる。風が冷たい。でも、どこか遠くで春の気配がしていた。
スマホが震える。真琴からだった。
『音川さん。今、どこにいますか』
『駅に向かっています。あなたの兄の——』
『私もです。一緒に行きませんか』
音川は少し間を置いた。そして、文字を打った。
『はい。喜んで』
彼は歩調を早めた。
これから、何が始まるのか。それを知るのは、まだ少し先のことだった。
でも——悪くなさそうだ。そう思った。
第23話 了