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『音の檻』第22話「対決」


    #創作大賞2026 #ミステリー小説部門 #ドラマ脚本原案 #少年マンガ原案 #アニメ原案


    【目次】
    第1話「密室のラスト・コード」
    第2話「刑事と記者」
    第3話「バンドの亀裂」
    第4話「5年前の影」
    第5話「音源という名の鍵」
    第6話「容疑者たちの夜」
    第7話「聴こえない演奏者」
    第8話「証言の穴」
    第9話「兄の記憶」
    第10話「音楽という凶器」
    第11話「桐嶋薫の仮面」
    第12話「密室の再現」
    第13話「第二の犠牲者」
    第14話「音の記憶」
    第15話「組織の壁」
     第16話「五年前の真実」
    第17話「崩れるアリバイ」
    第18話「二人の選択」
    第19話「聴覚という武器」
    第20話「黒幕の正体」
    第21話「どんでん返し」
    第22話「対決」
    第23話「真実の音」
    第24話「再びステージへ」


     翌朝、警視庁の一階ロビー。

     午前九時を少し回ったところだった。出勤する警官たちが次々と受付を通り過ぎていく。いつも通りの朝。いつも通りの光景。

     そこに、真壁警部が現れた。

     彼は一人だった。スーツはきちんと整っている。ネクタイの結び目も完璧だ。しかし、その目の下には深い隈ができていた。眠れなかったのだろう。いや、眠ろうとしなかったのだ。自分の決断を、もう後戻りできないところまで持っていくために。

     音川と真琴は、少し離れた場所からそれを見ていた。エレベーターの脇の柱の陰。彼らはそこで息を潜めていたわけではない。ただ、真壁の最後の瞬間を見届けるために、そこにいた。

    「本当に来たんですね」

     真琴の声は小さかった。彼女の手は、わずかに震えていた。真壁を憎んでいたわけではない。でも、兄を死に追いやった男が、自ら罪を認めに来る——その光景を、彼女はどう受け止めればいいのかわからなかった。

    「……ええ」

     音川は無表情で答えた。しかし、その目だけは真壁を捉えたまま動かなかった。

     真壁が受付に歩いていく。一歩、また一歩。その歩幅はいつもと変わらない。背筋も伸びている。彼は刑事としての誇りを最後まで捨てていなかった。

     受付の前に立つ。奥の警官が顔を上げた。

    「おはようございます。真壁です」

    「おはようございます、警部。何か用件ですか」

     真壁は少し間を置いた。その間、一秒にも満たない。しかし、その瞬間が永遠のように長く感じられた。

    「……自首します」

     受付の警官は一瞬戸惑った。何の冗談かと思ったかもしれない。しかし、真壁の目を見て、それが冗談ではないと理解した。彼はすぐに上司を呼びに行った。

     真壁はそこに立ったまま、動かない。振り返りもせず、音川たちの方を見ようともしない。

    「音川さん」

     真琴が小声で言った。

    「何です」

    「あなたは、真壁警部を憎まないんですか」

     音川は少し間を置いた。

    「……憎めない。彼もまた、被害者だったから」

    「でも、彼は人を殺した。レイさんを——」

    「ええ。それは許されない。でも——」

     音川はそこで言葉を止めた。何かを考えるように。そして、ゆっくりと続けた。

    「彼は自分の罪と向き合うことを選んだ。それだけで、私は——」

    「あなたは、許すんですか」

    「許すのではない。ただ——聴くだけだ。彼の声を。彼が何を言うのかを」

     真琴はその言葉を繰り返した。聴く。ただ、それだけ。

     取り調べ室は、白い蛍光灯の光で満たされていた。

     真壁は椅子に座り、正面の刑事たちに向かって話している。音川は「関係者」として同席を許されている。真琴は廊下で待っている。

    「では、もう一度お聞きします。あなたは五年前、神崎雅也を逮捕するよう急いだ。なぜですか」

     刑事の質問は淡々としていた。しかし、その目は真壁の一挙手一投足を逃さない。

     真壁は少し間を置いた。

    「……誰かに指示されたからだ」

    「誰です」

    「名前は言えない。言ったら——私の家族は守れない」

     刑事たちは顔を見合わせた。だが、誰も口を開かなかった。

    「では、ハーモニカを現場に置いたのも——」

    「同じだ。誰かに指示された。『これを現場に置け』と。『被害者のそばに必ず置け』と」

    「そのハーモニカは、どこで入手したんですか」

    「指示された場所に置いてあった。いつも。封筒に入れて。私の机の上に」

    「指紋は?」

    「拭いてあった。誰の指紋もついていなかった」

     音川はそこまで聞いて、ようやく一つの疑問が解けたような気がした。ハーモニカは「犯人のトレードマーク」ではなかった。誰かが真壁に指示して、現場に置かせていたのだ。その理由は——わからない。まだ、わからない。

    「なぜ、あなたはそれに従ったんですか」

     真壁は深く息を吐いた。それは、長年抱えていた何かを解放するような、重い息だった。

    「脅されていた。『協力しなければ、お前の家族を傷つける』と。私は——自分の家族を守るために、従うしかなかった」

    「それはいつからですか」

    「五年前——最初の事件が起きる直前からだ」

     真壁の声は掠れていた。疲れ切った男の声だった。刑事としての誇りを持ち続けてきた男が、その誇りを手放す瞬間だった。

    「私は操られていた。誰かに。自分ではどうすることもできなかった。ただ、指示に従うだけ。あのハーモニカも、音声ファイルも、『残響の彼方』の編集も、すべて——」

    「すべて、その指示だったと」

    「ええ。私はただの——操り人形だ」

     音川はその言葉を聞いて、何も言えなかった。真壁の目は、もう空っぽではなかった。何かを決意した人の目だった。操られていた時にはなかった、自分自身の意志が、そこにあった。

    「私は——全てを話す。そして、罪を償う」

     刑事たちはうなずいた。取り調べは続く。時間の感覚がなくなるほど、長い時間が過ぎていった。

     廊下で、真琴は一人、ベンチに座って待っていた。

     彼女の耳には、取り調べ室の声は届かない。しかし、心の中では別の声が聞こえていた。兄・雅也の声。レイの声。桐嶋の声。そして——真壁の声。

     それぞれが、何かを語っている。何かを訴えている。聴いてほしいと願っている。

     五年前、真琴は兄の声を最後まで聴かなかった。疑った。たった一瞬。ほんの一瞬の隙。

     その一瞬が、今も彼女の心に刺さっている。

    「今回は——」

     真琴は呟いた。

    「今回は、最後まで聴くから。たとえ、どんな声でも」

     一時間後、取り調べが終わり、真壁が廊下に出てきた。

     彼の顔色は青白かったが、目の光はしっかりとしていた。歩く姿も、よろけてはいなかった。

     音川はそこに立っていた。彼は取り調べ室を出た後、ずっと廊下で待っていた。

    「真壁警部」

    「……もう警部じゃない。ただの真壁だ」

    「真壁さん。あなたは——間違っていなかった。ただ、それを証明するために、私は——」

    「もういい」

     真壁は音川の言葉を遮った。

    「私は自分の罪と向き合う。それだけだ。お前は——お前の道を行け」

     音川はその言葉を聞いて、真壁の肩に手を置いた。

     それは逮捕の仕草ではなかった。もっと違う——一人の人間が、もう一人の人間を支える仕草だった。

     真壁は一瞬、驚いた表情を見せた。しかし、すぐに元の無表情に戻った。

    「……行け」

    「はい」

     音川は手を離した。そして、背を向けた。

     真琴が待っている。彼女は廊下のベンチから立ち上がっていた。

    「終わりましたか」

    「……ああ。終わった」

    「では、行きましょう」

     二人は並んで歩き出した。

     その後ろ姿を、真壁は無言で見送っていた。

     彼の目には、涙が浮かんでいた。こぼれはしなかった。でも、確かにそこにあった。

     その夜、音川は自宅の机に向かっていた。

     机の上には、雅也の遺書が置いてある。もう持ち歩く必要はない。でも——捨てることもできなかった。

    『誰も聴いてくれないから、俺も聴くのをやめる』

     五年前、音川は雅也の声を聴かなかった。無実の叫びを——「やってない」という声を。

     だが今——真壁の声を聴いた。彼の「操られていた」という声を。そして、「自分で責任を取る」という声を。

     同じではない。でも——似ている。

    「あなたの声も、聴こえていますか」

     音川は遺書に向かって呟いた。答えは返ってこなかった。でも、それでよかった。

     彼は遺書を封筒にしまった。引き出しの奥に。

     もう——見る必要はない。

     しかし、捨てることもできない。

     音川は窓を開けた。冷たい風が部屋に流れ込む。九月の終わり。もうすぐ十月になる。

    「これで——終わりにしよう」

     誰に言ったわけでもない。ただ、自分自身に言い聞かせていた。

    第22話 了



     
     
    日本映画学校出身。劇場映画・テレビアニメの編集を経て、映像・Web・音楽をワンストップで手がけて25年。SF/ミステリー小説・脚本原案を執筆中。noteでは映像編集ノウハウと創作の記録を発信。

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