
『音の檻』第5話「音源という名の鍵」
#創作大賞2026 #ミステリー小説部門 #ドラマ脚本原案 #少年マンガ原案 #アニメ原案
【目次】
第1話「密室のラスト・コード」
第2話「刑事と記者」
第3話「バンドの亀裂」
第4話「5年前の影」
第5話「音源という名の鍵」
第6話「容疑者たちの夜」
第7話「聴こえない演奏者」
第8話「証言の穴」
第9話「兄の記憶」
第10話「音楽という凶器」
第11話「桐嶋薫の仮面」
第12話「密室の再現」
第13話「第二の犠牲者」
第14話「音の記憶」
第15話「組織の壁」
第16話「五年前の真実」
第17話「崩れるアリバイ」
第18話「二人の選択」
第19話「聴覚という武器」
第20話「黒幕の正体」
第21話「どんでん返し」
第22話「対決」
第23話「真実の音」
第24話「再びステージへ」
ファミリーレストランの窓際の席。
午前二時を回っている。店内には客がまばらで、遠くの席で学生が一人、スマホをいじっている。アルバイトの店員がカウンターで欠伸をしている。
真琴はコーヒーカップに手を伸ばした。中身はもう冷めている。一口含んで、苦味だけが喉を通るのを感じた。
向かいに座る音川は、何も注文していなかった。彼はただ、真琴の次の言葉を待っている。
「レイの日記ですが」
真琴は言った。声は思ったより落ち着いていた。
「『残響の彼方』を聴いてほしいと書いてありました」
「それだけですか」
「ええ」
音川は少し間を置いた。彼の指がテーブルをトントンと叩いている。無意識の癖のようだった。
「他には」
「……他には」
真琴は一瞬、迷った。日記の最後のページには、あの一文しか書かれていない。それは本当だ。嘘はついていない。
でも、彼女は「自分にはそれ以外のものも渡された」ことを言っていない。鍵と日記帳。音川は鍵の存在を知らない。
「それだけです」
音川はうなずいた。彼の目が、真琴の顔をじっと見つめている。何かを探るような視線だった。
「わかりました」
彼はようやくそう言って、背もたれに寄りかかった。
「では、こちらからも一つ。あなたの兄についてです」
真琴の手が、コーヒーカップを握る力が強くなった。
「五年前、あなたの兄を逮捕する決め手となった証拠があります。音声ファイルです。現場に残されていたボイスレコーダーに、あなたの兄の声で『殺した』と録音されていました」
「そんなの嘘だ」
真琴の声はすぐに出た。自分の口から出た言葉が、自分自身でさえ予想していなかったほど鋭い。
「兄はやっていない」
「あなたはそう信じている」
「信じているじゃない。知っている」
音川は何も言わなかった。彼の沈黙が、真琴には「信じていない」と言っているように聞こえた。
「そのファイル、聴かせてください」
「証拠品なので、見せることはできません」
「じゃあ、私が見つける。あなたたちが持っているのと同じものを」
「自分で?」
「ええ」
真琴はコーヒーカップを置いた。カップとソーサーのぶつかる音が、店内に小さく響いた。
「あなたたちは五年前、兄の無実の声を聴かなかった。だったら、私は私の方法でやる」
音川はしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと立ち上がった。
「無理はしないでください」
それだけ言って、彼はレジの方へ向かった。
真琴はその背中を見送った。音川がドアを出るまで、彼女は席を立たなかった。
店を出ると、外の空気が冷たかった。九月の終わりの、秋の入り口。
真琴は空を見上げた。星は一つも見えなかった。
翌日。
真琴はレイのアパートにいた。
彼の部屋は、彼が生きていた時のままだった。ベッドは整えられていない。机の上には譜面が散らばっている。ギターが二本、壁にもたれかかるように立てかけられている。
大家から鍵を借りた。遺品の整理のためだと言って。
真琴は机の引き出しを開けた。ペン、チューニングメーター、電池、弦、ピック。普通のものばかりだ。
本棚。音楽理論の本、バンドのパンフレット、小説が数冊。
押し入れ。衣類、段ボール箱。
どこにも、鍵のかかる場所はない。
真琴は立ち止まって、部屋の中を見渡した。鍵が開くものは何か。ロッカーなど、ここにはない。
「違う」
彼女は呟いた。
鍵は「何かを開けるため」のものだ。その「何か」は、この部屋の中にあるとは限らない。
しかし、レイはあの鍵を「遺品」として残した。つまり、彼は誰かがそれを見つけることを想定していた。もし鍵がこの部屋の中のものを開けるのだとしたら、それはあまりに隠しすぎている。
真琴はギターを見た。
壁にもたれかかっている二本のギター。一本はアコースティック。もう一本はエレキ。
彼女はエレキギターを手に取った。重い。裏板を指で触る。ツルツルした塗装の表面。どこかに――
あった。
裏板のネジが一つ、緩んでいる。
真琴は爪でそれを回した。ネジが外れる。裏板が少し浮いた。その隙間に指を入れて、そっと持ち上げる。
中には隙間があった。本来なら、ここには配線や回路が収まっている。しかし、その隙間に――小さなUSBメモリが、黒いビニールテープで固定されていた。
真琴はそれをそっと剥がした。
なぜここに。なぜこんなところに。
レイは誰にも見つからない場所に、これを隠したかったのだ。でも、いつか誰かが見つけることも想定していた。
彼女はUSBメモリを手のひらに乗せて、しばらく見つめていた。
これを開くべきかどうか。
真琴の自宅。
帰宅後、彼女はパソコンの前に座った。USBメモリを手にしたまま、なかなか挿入できずにいた。
机の上には兄の写真が置いてある。雅也はギターを抱えて、笑っている。二十歳の時の写真だ。まだバンドを始めたばかりで、「いつか武道館でやるんだ」と言っていた頃。
「兄ちゃん」
真琴は呟いた。
「私、聴くから。あなたの声を」
USBメモリを挿入する。
ドライブが認識された。中のファイルは一つだけ。音声ファイルだった。ファイル名は『for_ma_koto』。
真琴はクリックした。
最初に聞こえたのは、ノイズだった。風の音か、あるいは何かの機械の駆動音。その中で、誰かの声。
「――やめろ」
雅也の声だった。
真琴は息を呑んだ。
「やめろ、やめてくれ――」
悲鳴だった。恐怖に震える声。涙が混じっている。
「お願いだ、やめて――ああっ」
叫び。何かが倒れる音。ガシャンという金属音。
「これでお前も俺の仲間だ」
別の声。低い、笑いを含んだ声。
「お前の妹も、いつか――」
そこでファイルは終わっていた。
真琴は動けなかった。
兄の悲鳴。恐怖。誰かが何かをしていた。兄を傷つけていた。
そして最後の声。
「これでお前も俺の仲間だ」
誰だ。あの声は。
真琴はもう一度、ファイルを再生した。
兄の悲鳴。その中に混じる笑い声。
もう一度。
笑い声。
もう一度。
「これでお前も俺の仲間だ」
その声の主を、真琴は知っている気がした。最近、聞いたばかりの声。でも、思い出せない。名前が出てこない。
喉元まで出かかっているのに、出てこない。
まるで誰かに、記憶の引き出しに鍵をかけられているかのように。
真琴はUSBメモリを抜いた。手のひらに握りしめる。小さなプラスチックの塊が、やけに熱く感じられた。
このファイルを警察に出すべきか。それとも――
音川は「証拠品を見せることはできない」と言った。警察が持っているファイルは、兄の声で「殺した」と録音されているもの。それは偽物だ。このファイルこそが、本当の声だ。
しかし、このファイルを提出すれば、証拠品として押収される。自分は二度と聴けなくなる。
それだけではない。このファイルを聴いた事実を警察に知られたら、自分も「証拠隠滅」かなにかで追及されるかもしれない。
真琴はファイルを隠すことを決めた。
少なくとも、今は。
彼女は机の引き出しを開けた。奥の方にUSBメモリを入れる。その上にノートを重ねた。
鍵。そういえば、あの鍵をまだ使っていなかった。レイが遺したあの鍵は、何の鍵なんだろう。
今はそれどころではなかった。
真琴はパソコンの電源を切った。画面が暗くなる。
その中に、自分の顔がぼんやりと映っている。目の下に隈ができていた。唇が乾いている。
笑い声の主。
誰だったか。
もう一度考えようとしたが、頭が拒否した。これ以上、あの声を聴きたくなかった。
真琴はベッドに倒れ込むようにして横になった。
目を閉じると、兄の悲鳴が蘇る。
耳を塞いでも、聞こえた。
塞いでも。
――誰かが笑っていた。
その笑い声は、兄の悲鳴を飲み込んでいた。
午前四時。
真琴は眠れずにいた。
カーテンの隙間から、わずかに明かりが差し込んでいる。街灯の光だった。
彼女はスマホを手に取った。
音川に電話をかけようか迷った。
でも、やめた。
あの笑い声の主がわかるまでは、誰も信用できない。
誰も。
彼女はスマホを机の上に置いた。
その時、画面に通知が表示された。メッセージアプリ。送信者は非通知。
『もう聴いたか』
真琴は背筋が凍った。
誰だ。誰がこれを送ったのか。
返信しようとしたが、できなかった。相手が誰かわからないからではない。指が震えて、うまく文字が打てなかった。
一分後、もう一通。
『聴いたな。これでお前もだ』
これでお前も。
ファイルの中の声と同じ言葉だった。
これでお前も俺の仲間だ。
真琴はスマホを机の上に置いた。震える手で、カバンを探る。鍵を取り出した。
レイの鍵。
明日、これを頼りに何かを探さなければ。
この鍵が開ける場所に、もう一つ何かが隠されているかもしれない。
真琴は鍵を握りしめた。
冷たい金属が、手のひらに食い込む。
窓の外で、誰かがハーモニカを吹いているような気がした。
気のせいだと思った。
そう思いたかった。
第5話 了