
『音の檻』第18話「二人の選択」
#創作大賞2026 #ミステリー小説部門 #ドラマ脚本原案 #少年マンガ原案 #アニメ原案
【目次】
第1話「密室のラスト・コード」
第2話「刑事と記者」
第3話「バンドの亀裂」
第4話「5年前の影」
第5話「音源という名の鍵」
第6話「容疑者たちの夜」
第7話「聴こえない演奏者」
第8話「証言の穴」
第9話「兄の記憶」
第10話「音楽という凶器」
第11話「桐嶋薫の仮面」
第12話「密室の再現」
第13話「第二の犠牲者」
第14話「音の記憶」
第15話「組織の壁」
第16話「五年前の真実」
第17話「崩れるアリバイ」
第18話「二人の選択」
第19話「聴覚という武器」
第20話「黒幕の正体」
第21話「どんでん返し」
第22話「対決」
第23話「真実の音」
第24話「再びステージへ」
記事を公開した翌朝、真琴のスマホは鳴りっぱなしだった。
知らない番号からの着信。メッセージの洪水。ネットニュースのトップには『五年前の冤罪事件、新証拠が浮上』の見出し。SNSでは「神崎雅也」の名前がトレンドに入っている。
真琴はそのすべてを無視した。今は——何も見たくない。何も聞きたくない。
彼女はカーテンを開けた。外は曇っている。九月の終わり、冷たい風が吹いていた。
スマホが震える。音川からだ。
「神崎さん。今、話せますか」
「はい」
「真壁警部に呼び出されました。おそらく——記事のことで」
「あなたは、どうするんですか」
音川は少し間を置いた。
「……これから決めます。でも、あなたには伝えておきたい。私がどんな選択をしても、あなたの味方でいることを」
真琴はその言葉に、何も言えなかった。
警視庁。真壁警部の執務室。
音川がドアをノックすると、中から「入れ」という低い声がした。
真壁は机の向こうに座っていた。痩せた男。いつも口元を引き締めている。今日は特に——無表情だった。
「座れ」
音川は向かいの椅子に座った。
「お前が神崎真琴に情報を流した。証拠はある。内部調査が入る前に、自分で決着をつけろ」
「どうしろと」
「刑事を辞めろ。今回の件は『内部の人間』が情報をリークしたことにする。お前が辞めれば、それで終わりだ」
「もし辞めなければ?」
真壁は少し間を置いた。その目が、冷たく光った。
「お前の家族も、神崎真琴も——何が起きても知らない」
「それは——脅しですか」
「忠告だ」
音川は真壁の目を見つめた。その目は、何かを隠している。何かを恐れている。でも、それを決して見せない。
「一つ聞かせてください」
「何だ」
「五年前、あなたはなぜ、あんなに急いでいたんですか。雅也を逮捕するように——何度も圧力をかけた」
真壁は答えなかった。ただ、口元をさらに引き締めた。
「何かから逃げていたんですか。それとも——何かに追われていたんですか」
「……もういい。出て行け」
音川は立ち上がった。ドアを開ける。その時、真壁の声が聞こえた。
「お前は——いい刑事だった。だが、思い込みが強すぎた。それが命取りだ」
音川は振り返らずに、部屋を出た。
その夜、音川は自宅の机に向かっていた。
彼はポケットから一枚の紙を取り出した。雅也の遺書。折りたたまれて、四隅が擦り切れている。五年間、ずっと持ち歩いていたもの。
『誰も聴いてくれないから、俺も聴くのをやめる』
音川はその文字を指でなぞった。そして——机の上に置いた。もう、持ち歩く必要はない。
彼はスマホを手に取った。真琴に電話を入れる。
「神崎さん。聞いてくれ」
「はい」
「俺は刑事を辞める。そして——あなたの味方になる」
真琴は息を飲んだ。
「本当にいいんですか」
「かまわない。五年前、私はあなたの兄の声を聴かなかった。でも——今度は聴く。あなたの声を。あなたが追う真実を」
「……ありがとうございます」
「こちらこそ」
音川は電話を切った。
翌朝、音川は警視庁を訪れた。
辞表を提出するためだ。真壁警部の執務室の前で立ち止まる。ノックをする。
「入れ」
真壁は机の向こうに座っていた。音川の顔を見て、少しだけ目を見開いた。すぐに元の無表情に戻るが。
「辞表です」
音川は封筒を机の上に置いた。
「受理する」
真壁は封筒を開けもせずに言った。
「他に何か用か」
「一つだけ——聞かせてください」
「何だ」
「あなたは、なぜそこまでこの事件を隠そうとするんですか。何から逃げているんですか」
真壁は答えなかった。ただ、口元をさらに引き締めた。
「……もういい。出て行け」
音川は立ち上がった。ドアを開ける。その時、真壁の声が聞こえた。
「音川。お前は——間違っていない」
音川は振り返った。真壁は机の上の書類を見つめている。彼の顔は見えなかった。
「お前は間違っていない。ただ——それが正しいとは限らない」
その言葉の意味を、音川はその時、完全に理解できなかった。
でも、いつか——必ず理解する時が来ると思った。
その夜、真琴は音川とファミリーレストランにいた。
二人はコーヒーを飲みながら、これからのことを話し合っていた。
「あなたは刑事を辞めた。それで——本当にいいんですか」
「いいんです。私にとって大事なのは、警察手帳じゃない。真実です」
真琴はうなずいた。
「私は——記事を公開した。もう戻れない」
「私もです」
音川はコーヒーカップを手に取った。
「これから、どうしますか」
「真壁警部を追う。彼が何を隠しているのか——五年前、何があったのか。すべてを明らかにする」
「一人では無理です。私も協力します」
「ありがとうございます」
真琴は少し笑った。
「これで、私たちは共犯者ですね」
「違います」
音川は真顔で言った。
「相棒です」
真琴はその言葉に、何も言えなかった。
ただ——心の中で、何かが変わった気がした。
店を出ると、外の空気が冷たかった。
九月の終わり、もうすぐ十月になる。
「音川さん」
真琴が言った。
「一つ、約束してください」
「何です」
「どんなことがあっても、真実を追うことをやめないでください。たとえ——それが誰かを傷つけても」
「それは、あなたも同じですか」
「はい。五年前、私はやめた。聴くことを。でも——もうやめない」
音川はうなずいた。
「約束します」
二人は握手をした。固く、短く。
それが——すべての始まりだった。
第18話 了