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見えない場所でわたしが輝くということ④

    第4話 ありがとう、という言葉

     三階のトイレを出ると、廊下の先に見知った顔があった。

     テナントの田所さんだ。経理の会社に勤めている四十代の女性で、毎朝八時きっかりにエレベーターを降りてくる。いつも少し急ぎ足で、私とすれ違うときだけ、ほんの一瞬だけ足を緩める。

    「おはようございます。
    最近、トイレがきれいで助かってます」
     今日もそう言って、また急ぎ足に戻った。

     私は「ありがとうございます」と返した。田所さんはもう角を曲がっていた。
     でも、一日のはじまりにその一言がかけられるだけで、その日を背負う感触は、ほんの少し軽くなる。うまく言えないけれど。

     掃除道具を片付けていると、一階の通用口を通りかかった警備の堀田さんが声をかけた。

    「相澤さん、今日も早いね」

    「堀田さんの方が早いじゃないですか」

    「俺は夜からいるからずるいんだよ」と笑った。

     堀田さんは六十手前で、このビルに十年以上いる。口数は少ないが、私の元気がないと「どうした、お嬢」と聞いてくれる。それだけで救われる。


     一階フロアへの新しいテナント誘致の話が出たのは、そんな日常の中だった。

     税理士事務所が入るらしい、と川村さんから聞いた。詳しいことまでは教えてもらわなかったが、霧島さんが久しぶりにビルに現れたことで、何か大きな動きがあるのはわかった。

     廊下にヒールの音が響くと、空気が少し締まる気がした。手帳の人——一条さんとの打ち合わせはテンポが速く、二人の間には長い時間が作り上げた呼吸がある。私はその傍らを通り過ぎながら、カートを押して持ち場へ向かった。

     霧島さんは私を見なかった。


     休憩室で田中さんが言った。

    「一階を丸ごとドラッグストアにするらしいよ。バックヤードも削って、できるだけ広く使わせるって」

    「ゴミの搬出口はどうなるんですか」と私は聞いた。

    「さあ。上が決めることだから」

     田中さんはお茶を飲み干して、立ち上がった。

     一階のゴミ搬出口は今、裏の通路に面している。そこを削るということは、搬出のルートが変わる。清掃のカートが通れる幅が確保できるかどうか。夜間の搬出時に、テナントの人と動線が重ならないかどうか。

     誰かに話すつもりはなかった。ただ、気になっていた。


     その週、一条さんが一階フロアの確認に来た。図面を広げて、霧島さんと話しながら歩いている。私はエントランスのガラスを磨いていた。

     一条さんが私の横を通り過ぎた。それから、少し戻ってきた。

    「何か気になることはありますか」

     霧島さんがこちらを見た。何も言わなかったが、視線が動いた。

    少し迷ってから、私は口を開いた。
    「……ゴミの搬出口のことが少し」

    「どんなことですか」

     私は磨く手を止めた。

    「今の位置を変えると、夜間の搬出ルートが長くなります。カートが通れる幅も確認した方がいいかと思って。あと、テナントさんの出入りと時間が重なると、お互い不便かもしれないので」

     一条さんは手帳を出してメモを取った。霧島さんは黙っていた。

    「ありがとう。確認してみます」
     それだけだった。私はガラス磨きに戻った。

     霧島さんが一条さんに何かを言っているのが、背後で聞こえた。声は低くて聞き取れなかった。


     数日後、図面が修正されたと川村さんから聞いた。搬出口の位置は変わらないことになったらしい。

     川村さんは「上が変えたんでしょ」と言った。私のことは、話に出なかった。

     よかった、と思った。

     結果として、誰かの仕事がやりやすくなればそれでいい。私の名前が出るかどうかは、関係ない。そう思いながら、でもほんのちょっとだけ、ちゃんと聞いてもらえたことが嬉しかった。そのことに自分で驚いた。


     新テナントの工事が始まると、一階フロアに養生シートが敷かれ、業者の出入りが増えた。清掃の動線も一時的に変わり、川村さんの指示がいつもより細かくなった。

     霧島さんはほぼ毎日来るようになった。工事の進捗を確認し、一条さんと打ち合わせをして、また去っていく。私とは目が合うこともあった。でも、声をかけることはなかった。

     ある日の昼過ぎ、霧島さんが一人で一階にいるところに出くわした。

     珍しいと思った。いつも誰かと一緒にいる人が、一人だった。工事の音が響く中、養生シートの端を見ていた。

     私は会釈して通り過ぎようとした。

    「相澤さん」

     名前を呼ばれて、止まった。霧島さんが私を呼んだのは、初めてだった。

    「搬出口の件、現場から上がってきたと聞きました」

     返す言葉が見つからなかった。

    「……参考にします」

     霧島さんはそれだけ言って、また養生シートの方を向いた。

     私は「失礼します」と言って、その場を離れた。

     廊下を曲がってから、少しだけ立ち止まった。

     「参考にします」という言葉が、どういう意味だったのか。認めたのか、牽制したのか。霧島さんの表情からは読み取れなかった。

     たぶん、どちらでもあったのだろう。

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    #創作大賞2026 #お仕事小説部門
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    言葉や物語を考えながら、日々の中の小さな揺れや、答えの出ない問いをすくい上げています。静かな思考のかけらを置いていく場所です。ゆっくり更新しています。

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