
見えない場所でわたしが輝くということ⑬
第13話 一条敦人のこと
沙希が一条ビルを去った、その頃、敦人は——。
敦人は何度か、紗希に連絡を取ろうとした。でも、送りかけたメッセージを消した。今の自分が何を言えるのか、どう向き合ったらいいのかわからなかった。家族に押し切られて、結局何もできなかった自分が、何を言っても言い訳になる気がした。
沙希が今どこで何をしているかは、知らない。知る由もなかった。ただ、どこかできっと、あの手でモップを動かしているだろうと思っていた。その姿を思い出すと、胸の奥が少し痛んだ。
あれから半年が経った頃、敦人は社内で一つの提案書を書いていた。
タイトルは「下請けスタッフの待遇改善と、現場の声を反映した再開発設計について」
清掃や警備など、ビルを支える下請けスタッフの労働環境を改善すること、現場から上がってきた声を設計に反映させる仕組みを作ること。この二点を柱にした提案だった。
会長である父は、最初から乗り気ではなかった。
「コストが増える」
「前例がない」
「余計なことをするな」
会議のたびに同じ言葉が返ってきた。兄は「現場のことは現場に任せればいい」と言って、提案書には目も通さなかった。
それでも敦人は、提案書を出し続けた。
変化は、小さなところから始まった。
社内の若手が、敦人の提案に賛同し始めた。現場を見てきた経験のある中堅社員が「実は自分もそう思っていた」と言ってきた。テナントの代表者の一人が「ビルの管理方針が変わるなら、長く入居したい」と口にした。
数字だけでは動かせない人が、現場の声では動いた。それが少しずつ、積み重なっていった。
半年後、待遇改善の一部が正式に承認された。清掃スタッフの時給が見直され、休憩室の設備が改善された。小さな変化だった。でも、確かに動いた。
敦人は承認の書類を受け取りながら、沙希のことを思った。あの早朝のトイレで、膝をついて床を磨いていた姿を。「見てなくても、使う人はいますから」という言葉を。
あの一言がなければ、自分はここまで考えなかったかもしれない。
ある夜、敦人は一条ビルの前を通った。
改修工事の準備が進んでいて、外壁に足場が組まれていた。夜の灯りに照らされた古いビルは、いつもより少し小さく見えた。でも、まだそこにあった。
ビルの前に立って、敦人はしばらく動かなかった。
このビルを建て替えるのではなく、活かしたいと思ったのは、最初からだった。古い場所には、時間やそこにいた人たちの思いが刻まれている。それらを全て壊して、なかったことにするのではなく、礎にして次に繋げたい。それが自分のやりたいことだと、ここに来るたびに確かめてきた。
沙希も、そう思っていたんじゃないか。
「このビル、好きなんです。古いけど、朝は静かで、ここを使ってきたいろんな人の思いが詰まってる気がして」
あの言葉が、今になってまた浮かんだ。
胸を張れる自分になりたい、と思った。もしもう一度会えるなら、次に沙希に会ったとき、「あのとき逃げた」と思われる自分ではなく、「あのあと、ちゃんとやってきた」と言える自分でいたい。
それだけが、今の自分を動かしていた。
足場の組まれたビルを見上げながら、敦人はまた歩き始めた。
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