
見えない場所でわたしが輝くということ⑧
第8話 自分の言葉で
会議の前日、川村さんから「明日、相澤さんも同席してください」と言われた。
理由は教えてもらえなかった。ただ、「一条さんからの要望で」とだけ付け加えられた。川村さんの表情は、特に何も語らなかった。
私は「わかりました」と言って、その夜、上杉くんと一緒に作った資料を見直した。どのフロアがどの時間帯に一番汚れるか。テナントから直接聞いた小さな不満。清掃省略エリアに指定された場所を使う人たちの動線。上杉くんが丁寧にまとめた表に、私なりの言葉を書き加えた。自分の言葉で話せる自信は、まだなかった。でも、紙に書けば渡せる。それだけを頼りにした。
会議室に入ると、一条さんの父、会長が上座に座っていた。初めて見る顔だった。一条さんに少し似ているが、目の鋭さが違う。霧島さんはその隣に、背筋を伸ばして座っていた。テナントの代表者が二人、清掃会社の上司、そして端の席に川村さんと私。
スーツの並ぶ会議室に、作業着のまま座った。場違いだとわかっていた。でも、それが今の私の仕事着だった。
会議はまず霧島さんの報告から始まった。改修後の管理計画、コスト削減の見通し、新テナント誘致のスケジュール。資料は厚く、数字は整然としていた。霧島さんの説明は淀みなく、会長は時折頷きながら聞いていた。私には半分も理解できなかった。
テナントの代表者が、いくつか要望を述べた。工事期間中の騒音対策、共用部の管理基準、入居者向けの連絡体制。霧島さんがその場で回答し、一条さんが補足した。
清掃の話になったとき、一条さんが私を見た。
「現場から、何かありますか」
全員の視線が集まった。
私は資料を取り出した。上杉くんが作った表と、私が書き加えた言葉。テーブルの上に置いて、一条さんの方へ静かに押し出した。
「まとめてきました」
会長が「ん?」という顔をした。霧島さんが手を伸ばして、資料を手に取った。
沈黙があった。
「省略エリアに指定されている廊下ですが」私は言った。「夜間のテナントの方が毎日使う場所です。ここの清掃頻度を落とすと、クレームが出る可能性があります。隣の表に、過去の汚れの状況と、テナントの方からいただいた声をまとめています」
会長が「そこまでやる必要があるのか」と言った。否定ではなく、純粋な疑問のような口調だった。「コストの話をしているんだが」
私は一瞬、黙った。
上杉くんがいたら、と思った。でも、上杉くんはいない。
「これは、ここで働く人たちが最後まで安心して過ごせるラインです」
自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。
会長が私を見た。霧島さんも見た。一条さんは手元の資料に目を落としていた。
テナントの代表者の一人が「そこは私たちも気になっていた」と言った。「工事が始まっても、最低限の清潔さは保ってほしい」
もう一人が頷いた。
霧島さんがペンを走らせた。「省略エリアの一部について、再検討します」
事務的な声だった。でも、動いた。それだけは確かだった。
会議が終わって、廊下に出た。
川村さんはすぐに別の用事に向かった。テナントの代表者たちもエレベーターに乗り込んだ。廊下には、私と一条さんだけが残った。
「正直、ヒヤヒヤしました」
一条さんが言った。
私は「すみません」と言った。
「謝らなくていい」一条さんは少し笑った。
「現場にここまで考えてる人がいることを見せられたのは、悪くなかった」
私は何も言えなかった。
「私は会社を守ることで、みんなを守れると思っていた」
一条さんは窓の外を見ながら言った。
「君は現場を守ることで、仕事の意味を守ろうとした。どっちも間違ってない。だから次からは、最初から一緒に考えよう」
廊下が静かだった。遠くでエレベーターの扉が閉まる音がした。
手帳の人、と私は心の中で思った。それからすぐ、その呼び方がもう合わない気がした。
この人とは、立場の違う同士だ。そう感じた瞬間、少しだけ身が引き締まる思いがした。
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